2017年4月 9日 (日曜日)

立会いが大事

どうも医者と意見が合わない事が多い。
そうでなくても頭が硬くなっているので、相手の言う事が理解できないと、何度も質問するので嫌な顔をされる。
病気に関する認知が決定的に違っている。
僕は生活に支障がない状態を病気とは思わないが、彼らは、多くの場合男性、数値で正常と異常の、病気と元気の区別をする。
そもそも病院を訪れた人を病人扱いをする。
そうである場合もあるが、病気かどうかを求めている訳ではない。

では、何を求めて病院に行くかといえば、双方向の語りである。
そんな時間がないので、すぐに 物言いになる。

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2017年4月 7日 (金曜日)

穴を掘って音を聞く

少年が暗い顔をしている。
これは可能性の問題だと感じた。
将来に対する可能性のある、そう信じている者にとって、将来は不安と期待が入り混じる存在である。考えるとそれだけ暗くなる。
老人は将来なんか考えないから、暗くなる前に、すでに絶望している。
自分があると思う者は自分に絶望する。
一貫した自己なんてないと思えば、目の前の食べ物を食べるしかない。

毎日を毎日のように送ること、これをそれに引き継ぐことで前に進める。
そう言ってやりたいが、耳は下を向いている。

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わからない部分

映画を見る事が多い。
しかし、すぐに忘れることも多い。
昨日見た映画は、途中眠かったこともあり、なんだかモヤモヤしている。
2回目を見る。
前回よりよくわかった気がする。
そういえば、昔、映画を見るときは、途中から入って、最後まで見て、そのまま、次の回のはじめから見て、面白かったら三回目を見た。
外に出ると暗くなっていたが、映画を見たなーという気分になった。
さらに、気にいると、再び映画館に通った。

歌もそうだった。
好きな歌を何度もレコードで聴いた。
そうして、身体に少しづつ刷り込んで行き、次第に身になる。
そんな風にしか物事が身体に入らない体質なんどろう。
昨日見た映画の中で、少年がいう、俺の気持ちなんか分からないだろうと。
そう、君の気持ちがわからなかったから、また来たよ。

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2017年3月31日 (金曜日)

はっきりさせようとすることは、混乱を生んだりする

先週退院したAさんが、今週再入院した。

Aさんに何が起きたのかはわからない。Aさん自身にもわからないかもしれない。
普通な暮らしをするためには、誰かの手助けが必要なのかもしれない。
しかし、一人で暮らすことを考えたら、誰かは、いつもそばにいるわけではない。
それは、少年の場合も同様である。
自立するためには、一人で生きていかなければならない。もちろん二人でもいいんだけれど。
でも一人で生きていくには、それなりのリスクがある。自分をコントロールするということに関して。
自分をコントロールする力があればそれでいいのだが、そうでない場合は誰かと暮らすことを選択する。
それは、母親の場合も同様である。
高齢であるというだけでなく、暮らしを考えるとき、生活力や関係調整のスキルが必要になり、それが衰えただけで一人暮らしは難しくなる。
そうした難しさを病院などの施設に収容することで解決できるのか?解決しているような気分になっていいんだろうか。
一人暮らしか施設かの選択でない多様な暮らし方を探したい。
そこで問題となるのが、専門家のアプローチかもしれない。
「問題」を明らかにすると、それを分類することになる。専門性を高めると分類は細かくなる。「問題」を見ないでも暮らすことはできる。
見ること、見つけることで、余計に苦しくなることがあるように、「まあそんなものよ」と薄眼で捉えることも必要だと思う。

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2017年3月 2日 (木曜日)

自分の怒った顔は見たくない

久しぶりにサイコドラマに参加した。
自分の モヤモヤを取り上げもたった。
それは、わかっている課題であるが、わかっていると合理化しているだけのことも分かっていた。
ただ、ドラマの中でどんな事が起きるのかに強い関心を持った。
僕の自我に誰を選び、クライエント役を誰に頼むのか、それは、すでに決まっていた。
クライエントに言わせたいセルフもできていた。すべは用意されている。
ドラマは、僕の想像どうりに進んんだ。それを期待していたわけではなく、分かっていた。
分かっていても認知されていないことは多い。
調和された世界の中で、生きている。それに納得しているか、そうでもないのか、その辺が問題となっている。
納得できないことは多い。それを納得するには、時間とそれを演じてくれる人が必要だ。
僕の代わりの人は少し怒っていた。その顔は、確かに怒っているように見えた。

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2017年2月24日 (金曜日)

旅先で思い出すこと

新潟に来ている。
40年ぶりです。信濃川を眺めていると、突然、その時食べたおいしいお米の味を思い出した。
兄が新潟市に赴任し、学生だった僕は、兄を訪ねて来た。
それほど仲良くなかった。というより、苦手意識があったのだろう。
何をしたか、なにを話したかは、全く思い出せないが、お米の味だけは忘れない。その艶や、色合いははっきりと浮かんでくる。おいて、大きな川。

川といえば、タイのカンチャナブリの川を思い出した。
季節は春、いや同じ2月。

でも、泳いでいる。
子どもと一緒に、プロレス技をかけるような格好で、川に飛び込んだ。
凄く暑くて、なんとなく虚しくて。

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2017年2月 4日 (土曜日)

ワーカーのリジリアンス

困難さを感じるワーカーのリジリアンスはどのように発揮されるのだろうか。
困難な状況を感じるのは、クライエントのせいばかりではなく、ワーカーの感受性も大きく影響を与えている。
そのツボをクライエントは心得ている。
弱さの中にいるクライエントにとって、弱さを使うこと、弱さに漬け込むことは得意技である。
相手が傷つくであろう言動を駆使して、世を渡る。それはクライエントのリジリアンスである。
しかし、それはワーカーの傷になる。
この辺が面白い。いい事は二つない。誰かが喜んでいる影で誰かが泣いているのである。
そうすると、傷つかないでいるという事は大事である。感受性が鈍いということも、ワーカーのリジリアンスになる。
何を考えているか分からない仙人のような人に相談に乗ってもらう。何にもならないと思いつつ話をし、結局何にもならないと悟り、その場を去る。
そこに行くことができたのであるから、去ることも出来る。
まあ、なんとかなりそうだと思う。
これは、ワーカーにとっても必要な処理方法だと感じる。
困難さを受けつつ、それを放出する。
それは、家族の関係でも言えるだろう。
親からせっかく自立したと思ったら、親の介護を背負う。
背負いながらその重さを軽くするには、沢山で背負うか、重荷を下ろすか。
そのどちらもできない人は逃げる。
逃げる事は恥でないと原さんも言っている。

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2017年2月 3日 (金曜日)

自己決定の機会を失わない事

援助により自己決定の機会を失くさない事が大切である。
しかし、援助をすることは、時に、クライエントの力を少なくしている。

生活の実感を感じたいと訴えるAさんは、いつも不満をぶつける。
権利擁護や効率を考えると、手を打つことが求められる。

その時、クライエントは、うわべだけの優しさや、自分の世界に土足で入られることに無力感を感じる。

うまくできないかも知れないが、自分の足で歩いたり、銀行に行ったりしたい。
できないかもしれないが、やりたいと言う。

どこまで待てるか。安全が侵されない限り、財産が大きく侵害されない限り?

援助したいと思うこと自体が負担と感じるクライエントに何が出来るか。

それでも関わり続けること。
と、電話をかけている。

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クライエントのリジリアンスを見つける

なんども試みるが失敗の連続だったケースが動き始めた。
そもそも、動かそうとする思いが強すぎ、それが硬直した状況を生むだけでなく、疑いを生じさせた。
その他の例にもれず、始めは関係の調整作用から接近する。いい感じで調子に乗らないだけの余裕はあったが、時間の経過とともに気持ちの変化と環境が変わった。

この辺の読みが甘かった。

期待は疑いを生む。
こんなに親切にしてくれるのは怪しい。
管理されることで安全は保証されるが、実感は薄くなる。

クライエントのリジリアンスを考えなかった訳でもないが、真直ぐに回復しないことを予想できなかった。

関係を調整するために生活に感情を戻す必要がある。
実感を作り出す事を始める。そのために時間を共有した。

そうする事で、前よりは良くなる。

観念的な表現である事は分かっている。
そもそも、クライエントの実感が曖昧なものであり、その曖昧さをそのままにしながらリジリアンスを見つける。

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2016年12月18日 (日曜日)

イツノマニカ

パソコンが壊れそうになり、データが失われる前に新しいPCに買い換えた。

その取り扱いに慣れるまで、何度も電話で相談し、やっと使えるようになりました。
そんな一ヶ月が過ぎた。
そしたら誕生日が過ぎていた。

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