カテゴリー「あいまいの知」の454件の記事

2009年11月25日 (水曜日)

僕たちは何を見ているのか

マイク・メイの目は開いた。

突然、無数の光が飛び込んできた。色の洪水のように。絨毯の模様が色として目に飛び込んでくると、それは模様に意味は薄れ、ゴッホの絵をまつげがつくように見るようなもの。

動くものや色彩を感じることはできるようになったが、人の顔を識別することができない。

見えるのに、その意味がつかめないらしい。

見ることは、学習によって可能となっている。

世界と出合い、世界を経験する中で、それを認識する。認識した瞬間、見えるものに意味が生まれる。

見ることにとって、触れることの意味は相当に大きい。

目がものを見るのではなく、脳が見ている(認識)。

つまり、僕たちは見たいように見ている。

だから、いま、目をつぶるとよく見えるものがある。

それが何かは云えないけどね。

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2009年11月18日 (水曜日)

ささやかな徳について

宿題で寝る前に人生の価値を並び替えている。

テキストとして「ささやかながら、徳について」アンドレ・コント・スポルヴェルを読んでいる。

当初、自分が望むものを選んでいたが、自分にない徳に関心が移ってゆく。

アンドレさん曰く、

「礼儀正しさ」「誠実さ」「思慮深さ」の徳を初めに紹介している。

それにしてもこれまでの人生で一番遠い価値観である。

ちなみに、「礼儀正しさ」のところには、「礼儀正しいだけでは不十分だが、もろもろの徳は礼儀正しさから生ずる」とある。

礼儀正しくない人は、まず、ここからはじめればいいらしい。

続いて「誠実さ」は、「モラルは礼儀正しさから始まる。それを性質を変えながら引き継ぐのが誠実さである」。なるほど。引継ぎます。

そして「思慮深さ」に移る。「思慮深さとは、見通しのきかない未来にかかわる徳であり、好機をとらえる徳、つまり忍耐と予見の徳なのだ」

そうか、辛抱が大切だということか。

あすは、「同情」「慈悲」「寛容」の徳に移り、楽しみを見つます。

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2009年11月15日 (日曜日)

Map of Narrative Practice

ナラティヴ実践地図 2009年マイケル・ホワイト 小森・奥野訳 金剛出版

問題の外在化

多くの人にとって問題は、「自己ないし他者の自己に内在する」と信じられてきた。

その問題を外在化=自己の外に出すことにより、内的理解の解毒剤となる。

ADHDと診断されたジェフリーとホワイトの会話が楽しい。

ジェフリーの世界にホワイトが入っていく。それは、ホワイトの世界=物語なのかもしれないし、ジェフリーの隠された世界なのかも知れない。

「君のADHDは何色?」と聞く。

その質問はジェフリーには届かない。

しかし、ホワイトが今まで出会ってきた大人でないことがジェフリーには伝わっている。

「君には弟がいるだろう?」

「クリスチャンだよ」

ジェフリーが反応する。

「君のADHDにも双子がいてね、そっちに会ったんだよ。2.3週間前に」と、物語は始まる。

もう、ADHDはジェフリーの内的な問題ではなく、ADHDという人格をもった存在となった。そのADHDが次第に様々な行動を起す。

そうすると、ジェフリーはADHDを客観的に観察し、自由に物語を書き換えはじめる。

私たちは頭が痛いとか、肩や腰が痛いとかいう。

ココにも、問題の内在化がある。

頭や肩や腰は決して痛がったりしない。私たちが痛いと感じようにしている。

脳は、なくなった手足でさえも、痒かったり、痛がったりする。

それがないにも関わらず、痛みを感じる。

問題は、むしろ私たち自身の感じ方、認知の仕方にあるのかもしれない。

リ・メンバリングとは、メンバーから外れた人を再びメンバーに戻す作業だと思う。

いなくなった人は存在が消えたのではなく、「いない」と感じる私の認知が問題を生み出す。いなくなった人も、物語の一部として私たちと同時代を生きている。

今、この時間も、隣に座っている。

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2009年10月31日 (土曜日)

中学生

中学生のように胸が痛い。

ジャンプすると背中が痛い。

これは青春の痛みかと我慢している。

今朝のお悩み相談で、上野先生が回答を寄せいていた。

上野先生の回答は、いつも意外な展開でハットさせられる。

ハットさせられると云えば、F先生のゼミも同様。

予想を裏切る展開に息が抜けない。

息を詰まらせてばかりいたので背中が痛いのだろうか。

胸の痛みを我慢しながらジャンプしていたら、横を通った少年が「それは、老人性の痛みだね」とボソット云って去っていった。

そう言われることは想定内である。

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2009年10月29日 (木曜日)

迷い込む

ICUの森で迷子になる.

木曜日は,死生学,生と死のカウンセリングなど,生きることと死ぬことを学ぶ授業が立て続けにある.

そこに,迷子が重なる.

「死を迎える前に死を経験すれば,もはや死ぬことはない」そんな状態である.

迷子とは自分が立っている場所が分からなくなる状態.立っていることは分かっていても,そこがどこなのか,どこに向かって進んでいるのか,混乱する.

若い頃は,「自分が死ぬなんて」考えられなかった,しかし,いまでは「自分が生きていることが」信じられない.

生きているだけでありがたい.

道があり,それがどこかに繋がっている.

右に右に歩いていけば元居た場所に戻れるはずである.そう信じて歩き続ける.

そこが天国でも,そうでなくても,歩くことしか出来ない僕には,他にすることはない.

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2009年10月28日 (水曜日)

年齢

若く見られる。

と言うことは、若くはないということ。

幾つに見られるかということより、自分の姿が気に入らない。

自転車で走っていても、写真に写る自分は、自分でない(ような気がする)。

奈良公園で鹿とツーショットで写っていても、自分でない。

では、自己イメージはどのくらいなのだろうと考えていたら、その答えの人が酒を飲んでいた。

どうも、僕のイメージは35歳くらいで止まっている。

その男性は35歳くらい(たぶん)。

しかも、自分がそこに居るような感覚を覚えた。

「やあ、そんなところに居たんですね」と、声を掛けたくなった。

久しぶりの再開は感動ものだった。

ずっと後を着いて行きたくなった。

どこに行くのだろう。

家に帰るのだろうか。だれと住んでいるのだろうか。どんな人かな。

それは、想像だけで止めておいた。

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聴く

哲学者鷲田清一は「聴く」ことに拘り、なにかを聴こうとする人の物語を書いている。

聴こうとする時には、目も前に人がいる。

その時、身体を前に傾けると聴けなくなる。

横を向いても聴けない。

それでいて向かい合う距離がとても辛い。

聴くことは勝負である。

勝敗ではなく、その緊張感が、ゲームとしての間合いがあるように感じる。

星治さん(仮名)との会話は続かない。

なにかを云ってしまうと、「それっきり」になってしまうようで怖い。

それでいて、なにも言わないではすまされない雰囲気を星治さんは持っている。

「どうしてもできないんです」と消え入るような声で、次の言葉を求めている。

誰に求めているのか、どこに求めているのかは分からない。しかし、目の前にいるのは僕だけだ。

ふたりの間にある空間になにかがあるとでもいうのだろうか。

そこには目に見えぬ穴が開いているのかも知れない。

沈黙が続いている。

僕らは穴に落ち、それでいながら明るい空を眺めている、そんな空想をした。

どれ程の時間が過ぎただろう。

目を上げると、星治さんの姿勢は変わっていない。

なにも変わらない、変わることは永遠にないだろう。それでいて、少し前の空間ではないことは確かだ。

聴いているのか、聴かれているのか、それさえも分からない。

ただ、ふたりの時間は過ぎてゆく。

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ならッポイ

奈良、京都、大阪と回って気づいたことがある。

それは、奈良の素敵さだ。

京都にも、大阪にも近いのに、その田舎文化を守っている。

それを「奈良っぽい」という。

何しろ、奈良駅という県庁所在地(たぶん)に鹿がいる。それは、日比谷公園に羊がいるようなもの。または、梅田に熊がいるようなもの。

事務所の前に、鹿がやってきて、植木を食べている。

それを「奈良っぽい」という。

また、奈良駅の隣には広大な空き地がある。平城京があったところが広大に空いている。

夜が暗い、空が広い、夕焼けが赤い。

そんな当たり前の景色をいまだに持っている。

それを「奈良っぽい」という。

奈良には弁当屋しているMSWがいる。旅行を仕事にしているSWがいる。自分の部屋を利用者に明け渡すホーム長がいる。

なんとかなると雰囲気が、まことに「奈良っぽい」

奈良の将来は明るい。

何しろ、遷都君は底抜けに明るい。

でも、人が沢山来ると奈良のいいところが減ってしまう。

でも、そんなことは心配いらない。

正倉院展に並んでいる人たちは、みな

「奈良っぽい」から。

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2009年10月19日 (月曜日)

素直

北山修は著書「劇的な精神分析入門」の中で、「素直になれるか」という文章を書いている。

「内に抱えている素顔の自分、あるいは自然な自分(英語でいうなら‘natural self‘と訳したい)、これを外に向けてどこでどう出すか、あるいは出さないかが、誰にとっても大きな課題だ」と述べている。

私たちは、素直になれる場所が必要だ。それは裸になれる場所だと北山はいう。

たとえば、寝室であり、便所であり、浴室、個室・・・

そこには、誰も立ち入ることができない。

つまり

安心できる場所=素直になれる空間には、孤独がつきまとう。

誰かに居てほしいと感じると同時に、誰もいないことで安心する。

動物であると同時に人間として振舞う私たちにとって、その場所は、動物/人間という役割を交換する場であるとも言える。

苦しいほどの素直さは、感受性の豊かさや才能の大きさでもある。それだけ、大きな孤独を抱えて生きることを要求される。

そんな孤独に打ち勝つために用意されているのが、「楽屋」だという。

人生の舞台に上がるため、また、舞台から降りて化粧を落とすため、楽屋は大きな意味を持つ。

楽屋の団員として北山は苦悩しているように見える。

少し長くなるが引用する。

「「充実」「満足」とともに、人生の目標や価値のひとつに数えられる「幸せ」は「仕合せ」「為合せ」と表記されることがある。その文字通りの意味からも分かるように、「幸せ」の代表的な条件は「うまく合うこと」であり、合うこと、合わせることと合わせてもらうことは幸せになるための条件、努力目標、義務となる。幸せへの努力は、具体的には、待ち合わせ、示し合わせ、申し合わせ、口裏合わせによって行われ、このような「合せる」はふたりの人間の思いを意図的にひとつに組み合わせたり、一致させたりするという意味である。中略。こうして、自分が素直でいられて、それが周囲から受容されるなら、幸せである。」と。

彼らは「出合い」、作品を残した。

その作品に僕らは「出合い」、その力によって、今このとき、幸せを感じることができる。

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2009年10月16日 (金曜日)

リアルおやじ

ロジャーズ派のビデオを見た。

理想の私と現実の私にどうやって折り合いをつけるかの話である。

ツールド・千葉の写真がインターネットにアップされた。

理想の私は颯爽と走っているハズであった。

が、現実の私は、ハアハアあえいで、肉もだぶついている。

こんなはずではないと、理想の私は言うが、現実の私は「こんなものでしょう」と諭す。

そういえば、クライエントはシンシアだった。

「シンシアといえば、南沙織でしょ」というと、現実のみんながぽかんとした顔をしていた。

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