2017年5月28日 (日曜日)

スローな生活③

夕方が好きだ。

この時間のために1日草を刈り、畑に出る。

夕日を見ている。

「一人一人に必ず与えられていると信ずる固有の命を重んじ、互いに協力することによって個ではできない、さらに価値ある社会を作ろうと願う」(宮嶋真一郎)

そんな社会が来るような気がする。

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スローなスローな生活2

 

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スローな生活は楽しい。けれど、厳しい。

競争原理をできるだけ拒む生活は、人間の本質を目覚めさせてくれる。しかし、きれい・便利・安全・安心・優しい暮らしではない。

それぞれに持っている個性や特徴がぶつかる。優しいとは、本性を隠しいいとこ取り特性があるとしたら、スローな生活は、様々な人たちの本性がぶつかり合う暮らしである。

理解できないような行動をとる人がいる。自分勝手に見える人がいる。何を考えているか分かりにくい人がいる。そうした多様性がある。

人との距離をとり、自分に危害を加えない人を選んで付き合う社会とは違う。一つ屋根の下でプライバシーをぶつけ合いながら、距離感を探る。

民主主義が時間をかけ、知恵を出し合い合意を取るように。スローな社会、協力社会は、時間をかけ、他者との距離(もちろん自然との距離も)を探る。

一見分かり合えないように見える人とどうしたら一緒に暮らせるかを探す。経済的に成り立たない暮らしを、どうしたら維持できるかを祈る。

それは合理的には、効率的には、管理的にはできな。そもそもできないことに挑んでいる生活だから。

そうした不可能な暮らしをしているところが一番の魅力である。

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スローな生活①

真木に通い35年

そんなに経ったのかと思う反面、やっと馴染んできたと感じる。

メンバーでない、そこに住んでいない僕が、真木に馴染むためにはそれぐらいの時間が必要だった。

スローな生活は、経済性・効率性・合理性がなく、非管理的で平等性が高いと感じる。何しろ、山を2時間近く登り、夜になると写真の茅葺屋敷以外に光はない。

何もないように見える場所であるが、時間だけはたっぷりある。そのたっぷりある時間に対話をする。動物と山々と、光や水の音と。そして自分自身と。

こんなに自分と向き合う時間は普段持てない。

35年の人生を振り返る。

それも一つ一つ。

何もしてこなかったこととを反省し。それでも生きてきたことを喜ぶ。

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2017年5月17日 (水曜日)

平均的な面接

すごく上手くいく面接は少ない。
それでもいい感じだったと思う事もたまにある。
しかし、いい感じだった面接の後に、悪い事も起こる。すると、どうしてだろうという気持ちになる。だって、うなく行ったのにとかんじているからね。
いい感じだと思っているのは僕であり、僕の気持ちを相手を巻き込んで終わっっているのかもしれない。
その点、平均的で普通の、なんの感動もない面接が一番いい。

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2017年4月 9日 (日曜日)

立会いが大事

どうも医者と意見が合わない事が多い。
そうでなくても頭が硬くなっているので、相手の言う事が理解できないと、何度も質問するので嫌な顔をされる。
病気に関する認知が決定的に違っている。
僕は生活に支障がない状態を病気とは思わないが、彼らは、多くの場合男性、数値で正常と異常の、病気と元気の区別をする。
そもそも病院を訪れた人を病人扱いをする。
そうである場合もあるが、病気かどうかを求めている訳ではない。

では、何を求めて病院に行くかといえば、双方向の語りである。
そんな時間がないので、すぐに 物言いになる。

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2017年4月 7日 (金曜日)

穴を掘って音を聞く

少年が暗い顔をしている。
これは可能性の問題だと感じた。
将来に対する可能性のある、そう信じている者にとって、将来は不安と期待が入り混じる存在である。考えるとそれだけ暗くなる。
老人は将来なんか考えないから、暗くなる前に、すでに絶望している。
自分があると思う者は自分に絶望する。
一貫した自己なんてないと思えば、目の前の食べ物を食べるしかない。

毎日を毎日のように送ること、これをそれに引き継ぐことで前に進める。
そう言ってやりたいが、耳は下を向いている。

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わからない部分

映画を見る事が多い。
しかし、すぐに忘れることも多い。
昨日見た映画は、途中眠かったこともあり、なんだかモヤモヤしている。
2回目を見る。
前回よりよくわかった気がする。
そういえば、昔、映画を見るときは、途中から入って、最後まで見て、そのまま、次の回のはじめから見て、面白かったら三回目を見た。
外に出ると暗くなっていたが、映画を見たなーという気分になった。
さらに、気にいると、再び映画館に通った。

歌もそうだった。
好きな歌を何度もレコードで聴いた。
そうして、身体に少しづつ刷り込んで行き、次第に身になる。
そんな風にしか物事が身体に入らない体質なんどろう。
昨日見た映画の中で、少年がいう、俺の気持ちなんか分からないだろうと。
そう、君の気持ちがわからなかったから、また来たよ。

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2017年3月31日 (金曜日)

はっきりさせようとすることは、混乱を生んだりする

先週退院したAさんが、今週再入院した。

Aさんに何が起きたのかはわからない。Aさん自身にもわからないかもしれない。
普通な暮らしをするためには、誰かの手助けが必要なのかもしれない。
しかし、一人で暮らすことを考えたら、誰かは、いつもそばにいるわけではない。
それは、少年の場合も同様である。
自立するためには、一人で生きていかなければならない。もちろん二人でもいいんだけれど。
でも一人で生きていくには、それなりのリスクがある。自分をコントロールするということに関して。
自分をコントロールする力があればそれでいいのだが、そうでない場合は誰かと暮らすことを選択する。
それは、母親の場合も同様である。
高齢であるというだけでなく、暮らしを考えるとき、生活力や関係調整のスキルが必要になり、それが衰えただけで一人暮らしは難しくなる。
そうした難しさを病院などの施設に収容することで解決できるのか?解決しているような気分になっていいんだろうか。
一人暮らしか施設かの選択でない多様な暮らし方を探したい。
そこで問題となるのが、専門家のアプローチかもしれない。
「問題」を明らかにすると、それを分類することになる。専門性を高めると分類は細かくなる。「問題」を見ないでも暮らすことはできる。
見ること、見つけることで、余計に苦しくなることがあるように、「まあそんなものよ」と薄眼で捉えることも必要だと思う。

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2017年3月 2日 (木曜日)

自分の怒った顔は見たくない

久しぶりにサイコドラマに参加した。
自分の モヤモヤを取り上げもたった。
それは、わかっている課題であるが、わかっていると合理化しているだけのことも分かっていた。
ただ、ドラマの中でどんな事が起きるのかに強い関心を持った。
僕の自我に誰を選び、クライエント役を誰に頼むのか、それは、すでに決まっていた。
クライエントに言わせたいセルフもできていた。すべは用意されている。
ドラマは、僕の想像どうりに進んんだ。それを期待していたわけではなく、分かっていた。
分かっていても認知されていないことは多い。
調和された世界の中で、生きている。それに納得しているか、そうでもないのか、その辺が問題となっている。
納得できないことは多い。それを納得するには、時間とそれを演じてくれる人が必要だ。
僕の代わりの人は少し怒っていた。その顔は、確かに怒っているように見えた。

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2017年2月24日 (金曜日)

旅先で思い出すこと

新潟に来ている。
40年ぶりです。信濃川を眺めていると、突然、その時食べたおいしいお米の味を思い出した。
兄が新潟市に赴任し、学生だった僕は、兄を訪ねて来た。
それほど仲良くなかった。というより、苦手意識があったのだろう。
何をしたか、なにを話したかは、全く思い出せないが、お米の味だけは忘れない。その艶や、色合いははっきりと浮かんでくる。おいて、大きな川。

川といえば、タイのカンチャナブリの川を思い出した。
季節は春、いや同じ2月。

でも、泳いでいる。
子どもと一緒に、プロレス技をかけるような格好で、川に飛び込んだ。
凄く暑くて、なんとなく虚しくて。

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