カテゴリー「電話相談」の54件の記事

2008年2月23日 (土曜日)

拘り

巻き込まれた。

そのとき急に頭が止った。

聞かれていることに応えられない。

実は、答えたくないという気持ちがあった。

冷静に振舞っていても、相手を拒否しているものを感じている。

冷静に考えれば、やり過ごすことが出来るとこが、できない。

相手がこだわっているようでいて、僕自身の拘りが、話をややこしくしている。すると、こちらの弱味を握ったように攻めてくる。

迫られると、余計に拘り、頑なになるというスパイラル。

終わってみれば何でもないことのなのに、大汗をかいた。

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2007年12月28日 (金曜日)

どう、話さないか

電話相談の場合、傾聴や相づちの大切さを言われることが多いが、最近、話をしない技術のようなものの大切さを感じている。

話すということは、情報(感情も含めて)を伝えることだと思う。

話をするからには、相手に理解して欲しい。何かを捕まえて欲しいと感じる。

そこのところが「ちょっと違う」と感じたとき、黙っていることは苦痛となる。話をしないことで、違いが大きくなると、もう相手の言葉を聞かずに、どういう言葉で理解してもらおうかと頭が働き出す。

傾聴とは聞き方である。話さない行為は我慢である。

これは似ているようで全く違う。

話を聞くことが上手い人が、話さないことが得意とは限らない。

これが役に立つ場所がある。

家庭である。

家の中で、親子で、夫婦で傾聴しながら生活する人は少ないだろう。もし、妻から、「フンフン、それで」と話を聞かれたりしたら、言わなくてもいいことを話してしまい、結果として夫婦関係がまずくなることは目に見える。

しかしである。

話をしないことは、夫婦関係にとって重要だ。(我が家の場合はね)

この場合、余計な事をいわないこと、いいたい事を我慢することをいってます。

大体、話をしたことの90%は、いわない方がよかったことだと感じている。

しかし、その我慢が中々できない。

どうしてこんなことを書いているのかというと。

今も余計なことを言って、後悔しているからだ。

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2007年10月18日 (木曜日)

疫病神

もうだめです。

と云いながら、次第に大丈夫でしょうかと聞いてくる。

「大丈夫でしょうか」と話されるようになると、もう、自分では大丈夫だと感じている。

信じることは実現する。

悪くなりそうだと云う人は、悪くなる必要がある。

そんなことはないと云うだろうが、どこかで、悪くなることを期待している所がある。

なんでこんなに不幸が訪れるのかという人がいる。

自分の周りには悪いことばかりがおこり、疫病神が付いているとしか思えない。

そういえば、いま、「憑神」という小説を読んでいる。

道端の祠に手を合わせたら、それは、疫病神だった。

運命を託すために手を合わせたのに、それが疫病神だったら、もうどうしようもないと感じる。しかし、主人公は、疫病神と友達になる。

疫病神は、あまりに不幸な人生に涙を流す。

疫病神から哀れみを受けるほどの哀れな人生というのは、相当なものだろう。

その、相当に不幸な人生は、疫病神をも見方にしつけてしまう。人生が変わってくる。

不幸が人生を変える。

それは、小説の世界での出来事だけど、信じれば実現する。

疫病神に取り付かれているのなら、それもまた面白いのかもしれない。

そういえば、今日、前のほうに座っている人が疫病神のような顔をしていた。

よく見たら、鏡に映った自分だった。

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2007年10月 7日 (日曜日)

溺れそうな僕

生活には波がある。
それは、星占いにも現われている。
今年は、いて座にとって最高の年であるというが、それでも、星回りが悪い日がある。
運の悪い日には悪いことが重なる。これは間違いない。
それでも、何とか軽くすることはできる。
何をするかといえば、何もしないようにする。それが一番。
電話相談においても同じ。
如何に力を抜くかが難しい。
抜きすぎると、眠くなる。無駄な部分の力だけ抜く。これはかなりの技術がいる。
考えすぎると何もできなくなり、余計に力が入る。頭が良すぎるのもよくない。知っていることと、教えることが違うのと同じように、聞くことと聴いていることは違う。
聴いているようで聴きすぎない聞き方ができると相手もこちらも楽になる。
そう、こちらの力が抜けると、あちらの力も抜けるのだろう。
波に乗っているだけでいい。
浮いているだけでいいんだろう。
でも、どうしても漕ぎたくなるんだよね。



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2007年9月21日 (金曜日)

大きく息を吐いた

ブースに入る前に大きく息を吐いた。

そのせいか、いつもより余裕が持てたような気がする。
話を急がず、待つことができたようだ。そうなると、終わり方に違いが出てくる。
この辺の呼吸は面白い。
いつもだって焦っている訳ではない。きちんと話を聴こうとしている。

対人関係には深さがあるように感じる。

こちらの調子とあちらの調子が関係する。
こちらが余りに調子いいと「頑張ってしまう」傾向があり、上手くいかないことにもなる。
あちらさんだって、話したい時もあれば、聴きたいときもある。

また、テンポ、リズムが大きく二人の関係を左右する。
大きく息を吐いたのは、一呼吸置くことを意識づけるため。
あちらさんの言葉に対して反応を遅くすることで、間ができる。
とくに僕の場合は待つことができない。しかし、間が持てると、待てるようになる。

すると、いつもより早く終わったりする。

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2007年9月 9日 (日曜日)

分かることの罠

相手の悩みが分かってしまうときがある。
分かると辛い。
なぜなら、自分も同じ悩みを持っているから。だから、そこから抜け出したい。すぐにでも、逃げ出したい。そうしないとどんなに危険な状態か知っているから。
そうした時、あまりに深くコミットしてしまうため、自分を見ている自分が゛消えてしまう。
それまで、゛そういってもね、大丈夫じゃない゛と言ってくれていたあの人が居なくなる。
自分の心が一致してその人めがけて突入しようとする。気が一本なので、気持ちがよく、高揚感がある。
気がつくと、アドバイスをしていたり、最高の提案をしている。だいたい、自分で最高の提案だと感じるアドバイスほど、どうしようもないものはない。
相手は、その提案に魅力を感じることはあっても、受け入れることはない。だって、自分で考えた案じゃないからね。
そして、゛この人、私のこと分かっていない゛と感じる。
どこか違っていると感じる。
そうなると、どんとんズレが大きくなり、修正不能に近づく。
それでも、僕は、懸命に説得を続けようとする。気分的には、「もうすぐだ」と感じている。
しかし、現実は、もうすぐ関係は終結するとも知らず。

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2007年9月 7日 (金曜日)

パーソンセンタリング・アプローチ

相談者中心アプローチ(パーソンセンタリングアプローチ)を心がけているが、巻き込まれてしまうと問題解決型のアプローチをしていることがある。

問題を抱えている人は、相談者であるのに、その問題を解決しようとしたり、解決できると思い込んでしまう。
ディブ・メアーズ著「パーソンセンタード・カウンセリングの実際」によると、“「賢いと」思われたい気持ちに注意する”と言っている。
自分が賢いと思っている人は少ないだろうが、賢くないと思って相談を行っているカウンセラーも少ないだろう。
つまり、相談をする側にいると言うことだけで充分に過信する要素を持っていることになる。クライアントを救いたいとか、助けてあげたい、又は、自分の援助によってクライアントが変わるのではないかと信じることは多い。
そうした確信は経験を通じて作り上げられるし、実際に上手く行くこともある。ここが難しいところだろう。
相談者の問題が見えてしまう時がある。それは経験上、彼(彼女)は今、こういう問題に陥っているから、アプローチはこれだという具合に。
しかし、たとえその場は問題が解決できたように見えても、また、相談者が感謝の言葉を話したとしても、相談者の本質は全く変わっていない。

相談は、カウンセラーのためにあるのではない。
しかし、問題解決アプローチは、相談者よりカウンセラーの満足度を高める効果があることも事実である。
そうしたアプローチを何度やっても、クライアントは違った問題を持ってくることになる。そして、カウンセラーを試すように、より難易度の高い問題を持ち込んでくる。まるで、予備校の先生が、より難しい問題を解決した時に褒美をくれるかのように。
そうしたゲームから抜け出すためには、「クライアントと共にいること(プレゼンス)の質の向上に努める」と、メアーンズはいっている。
共にいるとはどういうことだろう。
クライアントのプロセスに従って、側にいること。

昨日も、ゲーム好きな僕は、誰が主人公であるのかを忘れ、相談者の見方になれると信じてしまった。
他人の人生を生きることはできないと知っているんだけどね。



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2007年8月17日 (金曜日)

誰かいませんか

ちゃんと受けとめようとしたのに上手くいかないことがある。

「それは、ちゃんと受け止めていなかったんだよ」という声がどこからか聞こえてくる。

気持ちがかみ合わないからお互いに不全感を感じる。なんだか嫌な気分になる。

そんなときには、往々にして、初めから「いやだな」という気分になるものだ。そして、「やっぱり駄目だった」ということが多い。

頭よりからだの方が正直で、真実の気持ちを感じやすい。(それを信じられるかどうか)

話の途中で「これは言わないほうがいいな」という言葉が頭に浮かんでくる。言わないほうがいいけれど「言いたい」。

その悪魔の誘惑に負けてしまう。

そして、またしても関係がこじれる。

その言葉は、相手の「痛いところ」をついている。

そんなものだから、相手にとていつまでもその「言い方」が残ってしまい、言葉の意味より、「嫌な感じ」だけが大きく膨らむ。

つまり、初めから「上手くいかないゲーム」をしているようなもの。

相手は引っ掛けるために会話を初め、こちらも引っかかるために会話に参加している。

こんな不毛な会話に参加しなければいいだろう思うだろうが、そうは上手くいかない。こちらが出向いていかなくても、向こうからやってくる。

やってくる人を追い返す訳にも行かず、終わってみれば、自分の無能さや性格の未熟さを感じる。

ソーシャルワーカーは万能の力を持っているわけではない。自分の能力以上の課題を受け止めることはできない。

「あっ、これは自分では受け止められないな」と気付いたときには、早めに、誰かに代わってもらう必要がある。

そういっても、代われる人がいないことのほうが多いんだよね。

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2007年8月10日 (金曜日)

二股

「外に出られない」と山田さん(仮名)はいう。
「ところで山田さん。外に出られた時、どんなことをしたいですか?」と聞いてみた。
「・・・・」
山田さんから返事はない。
しばらくして、山田さんはあることに気づいたような顔になった。
「そういえば、外に出てもすることが見つかりません。あんなに外に出たいと思っていたのに、いざ出られた場合を想像すると、したいことが何にもないんです」という。
「それじゃ、外に出られないんじゃなくて、外にでる必要がないって事ですね」
「そうかも知れません。でも、家の中に居ると死にそうに苦しいんです」

 悩みの原因が分かっても悩みそのものが解決する訳ではない。外に出られない山田さんは、今まで夢中になって働いていた。むしろ、家に居ることが少ない生活をしていた。それがある事情で家に閉じこもってしまった。仕事を辞め、家に居ると、あんなに一所懸命に働いていたのは、家に居たくないからだということが分かった。分かってもどうしようもない。

 選択する道が2本ある。自分が行きたい道がどっちかは分かっている、分かっていてもそっちにいけない事情がある。だから、二股に分かれた道の分岐点で立ち止まって身動きができなくなっている。

 「今日話してよかったことが一つだけあります」と、山田さんはいう。
「どんなことですか」
「どうしようもないということが分かったことです。たぶん、当分迷っていると思います。でも、そのうちどちらかに歩いていくようになるんじゃないかと思います」と言った。
「そうですね」

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2007年7月 6日 (金曜日)

意味を探す

電話が鳴り止まない。
受話器を取ると、突然「いつも繋がらないわよ」と言われて、「すみません」と謝る。
電話は便利である。
家にいながら相談ができる。相談に乗ってもらい、問題を解決できると信じる人にとっては、利用する価値はある。
しかし、そんなことはあるだろうか。
電話をして、自分の悩みをいい、「さあ、解決してくれ」と云われ、「それはですね、・・・・をすると、たちどころに問題は解決いたします」と、そういう訳にはいかない。
そんなことは話をする人だって分かっている。
分かっていても、何らかの「答え」をもらえるんじゃないかと期待したい。
じゃあ、電話相談をしても無駄か?と聞かれれば、「無駄」だと思う。
にもかかわらず、「無駄」なコトを積み重ねると、「意味」あることになるのも本当だと思う。
「じゃあ、無駄じゃないのか?」と聞かれれば、「そうかもしれない」と思う。
「どっちなんだ」と言われる。
「どっちでしょうね」といわざる得ない。
ただ、「何もしないよりはいいかもしれない」と思う。

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2007年6月 8日 (金曜日)

電話が苦手です

電話の命は耳だ。
声が音になり、耳に飛び込んでくる。
目の前の人が話し、空気を伝わって聞こえる声と、電話線から耳に飛び込んで来る音は違う。どうしてこの機械から音が聞こえてくるのかその原理は分からないが、一本の線の向こうにいる人の存在を感じる。時に、恐怖であり、時に安心を与えてくれる。
人の声は、音としてだけでなく、その人の存在と重なり、まるで漫画のように受話器から人が出てくるイメージがある。
見えないからこそ、この電話線の向こうに、人の影がはっきりと見える。その人の表情が見えてしまう。
だから、苦手な顔だと緊張する。声が苦手なのではなく、その人の表情や雰囲気や気配が怖かったり、挑戦的であったりすることで、こちらか気圧される。
黙っていると、「そこにいるんですか?」と聞かれる。
「ええ、ここにいますよ」と、応える。
だから、足を踏ん張って聞かなければ聴けない話もある。

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2007年5月11日 (金曜日)

演じる私

「外出もできるし、ボランティアもしている。しかし、誰も私の話を聞いてくれない」と葉子さん(70代・仮名)はいう。
「私がこんなに孤独だって誰も知らないと思います」とも。
葉子さんは、高校を卒業して都内の貿易会社に就職。社内結婚をし、退職。その後子どもにも恵まれ、「何不自由ない生活を送っていると周りの人から見られるように」演技をしてきたという。
「みんなも演技をしているように思えたから、私も、それに合わせて演じているうちに、だんだん普通になってきた」。
子どもが独立、勝手に結婚をしてしまい、すぐに子どもができた。すると、子守をするのがおばあちゃんの仕事だと当然のように毎週日曜に連れてきては、二人で遊びに行った。
「それは、可愛かったから、嫌じゃなかったわ」
しかし、幼稚園に行くようになると、忙しくなったと、今度は全く遊びにも来なくなった。
そんな時、夫の具合が悪くなり、急に亡くなってしまった。
「いま思うと、みんな勝手なことばかりやって、誰も私の話なんか聞いてくれなかった」と、そんな風に思う。
「あの人は、仕事に一段落ついたら、二人で外国旅行に行こうなんて言っていたけれど、国内旅行だって、結婚してからは、二人で行ったことがないのよ」
子どもが去り、夫がいなくなった今、大きな家に一人でいると、無性に怒りが湧いてどうしようもない。
「なんか泣きたくなるのよね」

眠れない日が続いて、最近は薬を飲まないと寝られなくなった。

「まだ若いんだからボランティアでもしたらって、友達に誘われて行き始めた。でも、そこでも演技して笑って、人の話ばかり聞いている。誰も私の話は聞いてくれない」

「大きな家に一人で暮らし、ボランティアやっているおばあちゃんなんて、きっと幸せそうだろうと思われているのよね。でも、寂しくてしょうがない。悔しくてしょうがないのが本当よ」
「こんなグチは、誰にも言えない。もしいったらみんなびっくりして腰を抜かすでしょう。」
葉子さんは、何かを伝えたいのではない。自分からでた言葉が返ってくる関係を求めている。
「こうして話していると、だんだん、話をしなくてもいいような気になるわ。ただ黙って聞いてくれる人がいればね」
「そうですね」と返した。

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2007年4月20日 (金曜日)

気がつくと独り言をいっているんです

定年を迎えれば自由な時間を有効に使えるかと思っていた秋田さん。
それでも、何もしないよりは仕事をしていたいと、系列の会社に勤めた。
そこで3年、そろそろいいだろうと退職。年金もある程度もらえるし、退職金や貯金、その他の資産があるので、心配はない。
妻にも苦労をかけたので二人で外国にでも行こうと計画をしていた矢先、妻の病気が見つかり病院通いが始まった。
退院した妻の介護や食事に世話、その他やることは沢山あったので、何も考えずに仕事のように働いた。
その妻も1年後に他界。
仕事もなくなり、妻に先立たれ、一人になってしまった。
「これからの人生が長いんだから好きなことをしろよ」と友達から言われる。
確かに、ある程度のお金と自由な時間はある。それに、人よりは趣味は多いと思う。営業をしていたこともあり、人の中に入っていくことにも抵抗がない。
「やれば何でも出来る」と思っていた。
しかし、なにもできない。
同年輩の人から見れば、「悠々自適」の生活だねなんていわれるが、「ちっとも楽しくない」。それどころか、漠然とした不安が時々襲ってくるようで、一人でいることが怖くなることがある。
この年で、「一人でいるのが怖い」なんて、男としては絶対にいえない。だから、外に出る時には、若い格好をして早足で歩くようにしている。
趣味の仲間には、「一人はいいよ、気楽で」なんて言っているが、本心は不安でしょうがない。
弱音を吐ける人がいればいいんだろうけど、妻以上の人は現れないだろうと思う。
「男が先に逝くべきだよね」と、小さくつぶやいた。

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2007年4月13日 (金曜日)

うそ

「それ嘘じゃないですよね」
嘘をつくのは難しい。ほんとうのことを言うのはもっと難しい。
例えば、「妻と仲良くやってます」とか、「仲が悪くて相手が何を考えているのか分かりません」と全くちがったことを言った場合。両方とも本当のような気がする。
嘘をついているつもりでも、話をしているうちに、それが本当のことのような気がしてくる。
「夫婦仲が悪い」と嘘をついたつもりでも、「いや、本当に仲が悪いのかも知れない」という気分になる。そういえば、今朝家を出るときに、よそよそしかったなとか、この前・・・とか、色々な悪い状況を思い出してしまう。思い出すのは仲が悪いということを裏付けることばかり。そうか、「やっぱり仲が悪かったんだ」と気づいたりする。

嘘を言っているつもりでも、それが嘘にならなくなってしまう。すると、それは嘘ではなく、うそのような誠になっている。
ほんとうのことを言うことはもっと難しい。
例えば「夫婦仲がいいんです」と言ってみた時、「例えば」と言われると困る。

一生懸命に思い出そうとするが、ちっとも思い出せない。

仲がいいと思い込んでいただけという事実だけが重くのしかかる。

ほんとうのことを言おうとした瞬間、それは嘘になり。嘘をつこうとした瞬間、それは本当になる。

しかし、確かなことは、夫婦仲があまりよくないという事実。

なにも言わない方がよかった。

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2007年3月29日 (木曜日)

ムキ

電話をしていると、ムキになることがある。
例えば、自分の得意分野の話になったときとか、相手の一言で反応してしまう時が多い。
前者は何とかコントロールできるかもしれないが、相手の意外な一言には、こちらが無防備なので、つい反応してしまう。
今日もムキになっていた。
それは後で気づくことなんだけれど。
どうしても、拘りから抜けられない。止めようと思っているのに、ムキになっていることを止められない。止められないからムキになっているんだけど、
それが起きたきっかけの言葉が何であったのかはすぐに忘れるのに、何かに引っかかったことだけはずっと引きずっている。引きずりながら話を聞いていると、相手の言葉より、何かに引っかかっている自分が気になってしまう。
そうなると、何を話しているのか分からなくなり、落ち着くまで時間が掛かる。
ああ、もうだめだと諦めて立ち直るまで待つしかない。

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2007年3月 9日 (金曜日)

心の整理

電話相談を何年もしていると、顔を見たこともないのに、友達のように話ができる人がいる。
毎週、その日の気分を伝えてくれる。
「今日はね、1年ぶりに友達に会って楽しかった」とか、「今日は、雨だったから家で音楽を聞いていた」とか、「今、料理を作って食べたところ、上手くできたわ」とか。
その人の日常の報告が繋がり、その人の生活が見えてくるような会話が毎月交わされる。
言葉の向こう側にある気分が見えてくるように感じる。
その時、きっとこちらの気分も相手に伝わっているんだろう。向こう側の気持ちが分かるときには、こちら側の気持ちも伝わっている。
「うん、ううん、そう」と言っているだけでも、僕の「うん」から、調子の良し悪しを感じ取られているのだろうか。
こちら側が、親しみを感じるときに、向こう側も同じ気持ちを感じる。こちら側が、戸惑いと感じているとき、向こう側も戸惑う。
受話器をとる前に、心の整理をしないといけない。

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2007年2月16日 (金曜日)

そうなんです

「どうしたらいいでしょうか」
「どうしたらいいか分かるといいですね」
「そうなんです」
「そうですよね」
「まったく」
「まったくね」
「ところで、哲学的な話をする方ですね」
「そうですか」
「そうですよ」
「そんなもんですか」
「でも、落ち着きます」
「落ちつくと安心ですよね」
「そうなんです」
「こちらもホッとします」
「そうなんですか」
「そうなんですよ」
「そんな風に思っているなんて知らなかったです」
「そうですか」
「そうですよ」
「実はそうなんですよ」
「そういわれて安心しました」
「そうでしょう」
「ええ」
「そんなもんですよ」
「同じなんですね」
「おんなじなんですよ」
「そうなんですね」
「そうなんです」

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2007年1月19日 (金曜日)

胸は張り裂けない

不安で不安で胸が張り裂けるような気持ちの栄子(仮名)さんは、相談員から「それでも胸は張り裂けませんよ」と言われた。

「そういえばそうだ」と可笑しくなった。笑ってしまった。比喩でいった言葉だが、わたしの心臓はしっかりと鼓動を刻んでいる。私がどんなに苦しんでも私の心臓は文句も言わずに動いてくれることを考えると、贅沢な悩みかもしれない。

先生からも、「昨日のあなたと、今日のあなたは違うんですよ」と言われたことを思い出した。毎日、私は、少しずつ自分が気がつかない程度に変わっている。そう考えると不思議な気がする。

今の私はさっきの私と違う。こんなに苦しいのに、ずっと苦しいのに、さっきの苦しみと今の苦しみは違うというのか。

そう考えると、この苦痛も諦めることが出来るのだろうか。早く、あきらめたいと思う。救われたいと思う。

世の中は、プラス思考だ、肯定的に考えろだと騒がしい。できないことがあっても、「しょうがない」と考えろという。そんなことが出来れば苦労しない。出来ないことばかり考えるから苦しさはちっとも消えない。

最近、マイナス思考でもいいんじゃないかと思っている。プラス思考がどんどん足していく考え方だとすると、マイナス思考は引いていく考えだと思う。どんどん引いていき、最後に何も無くなったら、その時諦められるかもしれないと思うようになった。

いったい、自分には何が残るのだろう。

残るものがあるのだろうか。

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2006年12月29日 (金曜日)

声が聞こえる

涙が出た。
声というのは面白い。
人の声を聞いているようで、それでいて自分の声が頭の中を回る。
おばあさんの話をした。
命の短さを悟ったおばあさんの話。
おばあさんは、決心した。誰かの役に立ちたいと。笑顔を届けたいと。
毎朝、道行く人に声をかけることを決め、そして、実行した。
はじめは、小さな声で。だんだん、しっかりした声で、そして、手まで振るようになった。
その声に応える道行く人がいた。
そんな話をした。

 その時声が聞こえてきた。
誰のこえだろう。聞き覚えのあるあの声が。
涙が流れた。

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2006年12月15日 (金曜日)

いい椅子が欲しい

電話で相談を受けているとき、椅子を動かしながら話を聞くと落ちついて考えられる。
そういえば、歩きながら考えるほうがいい考えが浮かぶ。

足の裏と頭の関係はどうなっているんだろう。

また、考えているときに、どこかをしきりにいじっていることがある。目が動くこともある。
脳みそは動かないから、身体が動くのだろうか。
そう書いて、いま腕を組んで、それから髭を触った。

呼吸合わせの時に、相手のゆれに合わせると、気持ちがあってきて楽な気分になる。
心地よいゆれをつくってあげると相手も心地よくなる。

そう考えると、向谷地さんがいう「形から入る」ことを考えると、電話相談であっても、こちらがゆったりと揺れることができる環境を作るとこが大切だ。

だから、相談の椅子はパイプ椅子は失格。動く椅子やリクライニングの椅子がいい。
しかし、余り気持ちのいい椅子にゆったり揺れているとそのまま寝てしまうから気をつけよう。

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2006年12月 8日 (金曜日)

乾いた笑い

どんどん元気になってくる人がいる。
声に力が出てきているのが分かる。喋りのスピードが一定になり、聞く力が出ている。自分の考えも言うが、人の話を聞けるようになっている。
電話相談は、話を聞くことがモットーだが、相談者が相手の話を聞けるようになるとその変化の大きさが分かる。
「ずいぶんよくなって来ました。あと・・・だけが問題です」という。
つまり、自分のどこがよくなってきて、どこがまだなのかが分かっている。これは凄い。
雑談をする。冗談をいうと笑う。声が弾んでいる。
なんでもないことを話している。問題を解決しなくても、何でもないことでも話せるようになっている。天気がどうしたとか、寒いとか、そんなことを話したり聞いたりできる。先を急がなくなっている。どうせ何も解決しないということがわかっている。
「電話では何も解決しませんよ」というと、
「そうですね、分かってますよ。でも、すこし話したかったから」という
そして、
「まだまだダメですよ」という。
しかし、その声は笑っている。
笑いは重要だ。笑えるようになると、自分を自分で見ることができるようになる。どうしようもない自分を笑っている。なにも可笑しいことはない。3ヶ月前だったら、そんな自分が嫌で、決して笑い事じゃなかった。
それが、状況は全く変わっていないのに、笑える自分がいる。
「まったくしょうがないですよね。笑っちゃいますよ」
乾いた笑いだ。
でも、笑っている自分が好きになってきていることは分かる。

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2006年12月 2日 (土曜日)

喋りすぎるのも寂しい

12月5日のクローズアップ現代(19時30分から放送)は、傾聴ボランティアの特集です。
「安心電話」も取材があり、2分ほど放送の予定がありますので関心のある方はご覧ください。
傾聴という作業は、カウンセリングの一つの方法であったものが、現代社会では、情報として「傾聴」が流れると、「傾聴」されたいという人たちが現れます。
ただ話を聞いて欲しいのではなく、積極的に聞いて欲しい。それも、「黙って私の話を聞いて欲しい」人が増えたのでしょうか。現代日本には、黙って話を聞いてくれる環境がないのでしょう。
昔から、人々は「人の話なんか聞いていなかった」と思います。それでも、話をする場はあったのでしょう。そこでは、話をしてもいいという雰囲気があり、聞いているのかいないのかは分からないけれど、安心して喋ることができ、なんとなくきかれているなあという感じが持てたのでしょう。
南イタリアを旅行していたとき、列車に地元もオバサンが乗込んできました。すると車内は、言葉の洪水になり、綺麗な景色が吹っ飛んでいきました。おばさんたちは、話を聞くことをせず、話すことがゲームのように言葉を操っていました。
次の駅で、オバサンが降りると、地元の高校生が手を広げてポーズをとり、「しょうがない」といういう顔をして見せてくれました。
おばさんたちは、誰一人として人の話を傾聴しません。それでいて、自分の話は聞かれているという確信をもち、もしくは、自分は喋る必要があると信じ、満足感を得ています。
なぜなら、サッカーの試合が終わって満足している選手のような顔をしています。
日本には一人暮らしの老人が沢山います。人里離れた山間に住む老人は1週間以上、誰とも話をしない事だって普通の生活です。その人たちは話を聞いてもらえないことを寂しいとは感じません。
山には山の、海には海の神が住み、人間の話相手になってくれたと思われます。自然も人間の話し相手になってくれます。自然は決して言葉を喋りませんが、しっかりと聞き、時には人間に話しかけてくれます。
ただひたすら話を聞く「傾聴」は、聞く人が何もしないと思われていますが、そんなことはないのです。
黙っているように見えて、心の中(頭の中)は、相手のことがぐるぐる廻っているのです。
しかし、傾聴をボランティアするようなことにはどうも賛成できません。
「だれとも喋らない生活」があるから、ボランティアに「傾聴」してもらうのはどこかが歪んでいると感じます。
人々の寂しさ(人間のさびしさ)を受け止めるのは、ボランティアではなく、社会や自然や宗教の役割ではないかと思います。

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2006年11月24日 (金曜日)

味のある人生

月に3,4回電話相談員としてブースに座り電話を取っている。
相談員として5年ほどの経験になる。毎回平均8本程の電話を受けると計算すると、月に30本程度、年に400本あまり、5年で2000人の電話を受けたことになる。
数というのは、溜まってくるに従い意味が出てくる。
5年前と今では電話の話し方が変わっているだろう(いい想像)。
どこがどうということは分からないけれど、何度も何度も繰り返すということによって、味が出ていると信じている。
そう考えると、ただ生きているだけでも味が出てくるのだから、波乱万丈な人生を送っている人たちはやはり、いい味が出ている。
この味と言うのはその道のプロということだと思う。外科医が難しい手術を何例もこなすに従い名医と言われ、腕がいい先生といわれる。一方、手術をさせてもらえない先生は一向に腕が上がらない。
もちろん、数をこなしても一向に腕の上がらない人もいる。それでも、やり続けているということだけで味は出ると思う。ダシのようなものが。
正しい生き方とかがあれば別だが、生きるスタイルは人それどれだから、相談のスタイルもそれぞれでいいように感じる。(もちろん最低限のルールやスキルはある)
でも、それ以上に生きている味が出せるような人間であるといいなあと思う。
占星術によると、今日、木星が射手座に入ったそうだ。木星はラッキースターで、12年に一度星を替わる。今日からの1年が射手座の僕にとってラッキーな年になると、スターマンが言っていた。

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2006年11月23日 (木曜日)

落ち込む瞬間

僕は口が堅い
余計なことは余り言わない。
それでも、余計なことを言っては、言わなきゃ良かったと思う。
では、言ってよかったなぁということを喋っているのだろうか。
殆どない。
つまり、言わなくても言っても、どっちでもいいようなことを喋っている。
まあ、大した人間でないのだから、大したことなんか話せるはずがない。

だから、

電話相談をしていて、偉そうなことを言っている自分に気づいては落ち込む。
偉そうなことを言うのは偉くないからだということを知っている。

だからだんだん口が重くなる。

それでも、いつの間にか

余計なことを言っては落ち込んでいる。

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2006年11月11日 (土曜日)

当事者は私です

電話相談に電話してくる人は当事者である。
つまり、電話相談は当事者から学べる現場である。
当事者は自分の話をしているようで、時々だれか他人の事のような口ぶりになる。
「だから困るのよね」
という。
そういった時には、困っていない。
困っている自分を見て、笑っている。
べてるのメンバーはしきりに冗談をいう。
「今日のお客さんは受けが悪いな。東京の笑いは難しいなあ」
という。
「統合失調症にとって笑いは大事なんだ」
という。
困ったときには、自分の問題としたくない。誰かのことのように笑っていられたらいい。その時だけは気が楽になる。
しかし、笑いが引いたときには、前より辛くなる。
だから、自分研究を始めた。
自分の問題や辛さを分析する。
お客さん(幻聴をこう呼ぶ)が救急車を呼べと煩いので、遠くの町まで電車に乗って、その町で119番に電話するメンバーの発表があった。
自分の町で救急車を呼ぶと、近所迷惑だし、何度も同じ事をして目を付けられたくないという変な理屈を考え出す。
救急車が来ると、お客さんはどこかに行ってしまうが、救急隊に済まないからとりあえず「お腹が痛い」という。そこで、変なことを言うと変な病院に連れて行かれるから、「お腹が痛い」が一番いいということを学んだ。
そうした、研究や実践を積み重ね、成長することで救急車を呼ばなくてもよくなる。
苦労が人間をつくる。

電話口で当事者が、「寂しくて死にそうだ」
という。
その時当事者ができることは、自分の寂しさを研究するか、寂しい自分を笑うかだ。
僕は、当事者研究に付き合うために話をじっくり聞く。
なにしろ、当事者の問題は当事者しか解決できないのだから。

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2006年10月27日 (金曜日)

離婚

キミさん(仮名66歳)は離婚を考えている。

15年ぐらい前から、夫との関係が壊れ、家にも寄り付かなくなった。この間、一人で子どもを育ててきたと思っている。子どもたちは、私の気持ちは分かってくれていると自負がある。

その夫が、たまに帰ってくる。何も話はしないが、食堂の椅子に座ると食事を出している自分がいる。夫も、当たり前のように黙って食事をして、再び家を出て行く。

なぜ、あんな夫に食事を出すのだろうと疑問に感じることもあるが、習慣といってしまえばそんな感じもする。

この食事を食べさせて、それで毎月のお金を入れさせているような所がある。へんな気もするが、これを辞めたら、お金が入らないようにも思ってしまう。

夫が仕事を続けられたのも私が家を守ったからだと思うし、子どもがちゃんと成人したのも私がしっかり躾をしたからだと思っている。

しかし、離婚したら、私に残るものはない。

いま、離婚後も経済的に自立できるために、また、夫からどうしたら財産を沢山取れるか研究している。

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2006年10月20日 (金曜日)

観察記録

ひとり暮らしの山田さん(仮名80歳)は周りの人のことが気になってしょうがない。

仲間と一緒の会合では、隣の人の言葉遣いが気になる。

以前、言葉遣いを注意したところ、「反撃」されてから、怖くてものも言えないようになった。

黙っていると、今度は「なにか喋りなさいよ」と言われる。差しさわりのないようなことを話そうとするが、差しさわりのないことを喋るのも気を使うので疲れる。

街を歩いていても、若い子の態度や行儀の悪さが気になる。気にしないようにすればするほど気になり、見てみない振りをして歩かないといけないので、散歩するもの面倒だという。

その山田さんにイチローのこだわりと職人気質の話をしたところ、大変に喜んでもらった。

そこで、山田さんに提案をしてみた。

「山田さんは気にしないようにしているんですよね」

「そうだ」

「気にしてみてはどうです」

「それはどういう意味だ」

「たとえば、イチローみたいにこだわりを持って、世の中を観察してみたら面白いんじゃないですか」

「まあ、面白いかもしれないけど」

「山田さんはいろいろ気になるタイプですから、この長所を生かしてみたらどうだろうかと考えてみたんです」

「まあ、やってみてもいいが」

と、山田さんは世の中の隅々を観察することになった。

これが、山田さんの生きがいとなってくれればいいが。

報告が楽しみである。

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2006年10月13日 (金曜日)

口がすべる

話というのは難しい。

とっても調子よく話をしていると、つい口がすべる。

この場合「すべる」とは、余計なことを言うという意味もあるが、話に熱が入るとか、調子よく会話が進むということでもある。

すべるためには、その前がある。

話は上手く進まず、どちらかといえば耐えている。じっと、聴いているという場合が多い。それが、何かの具合で話が噛み合い始める。それまでの、忍耐の時間があるから「ほっと」した気分になる。「よかった」という気持ちが生まれる。

おしゃべりをしていた相手も、話し続けて疲れた様子があり、ちょっと話を聴きたいという気分だったりする。笑ったりする。「それで」と言葉を促したりする。

どんどん息が合っている気分となる。

それが、急に「ちがう」と空気に変わる。

「あっ」と思う。

まだ、「そこまで行ってはいけなかったのに、口がすべった」と感じる。しかし、もう遅い。

喋ってしまったものはしまえない。

再び、重い空気が流れる。それまでの楽しい雰囲気が一変する。前よりさらに重くなる。

これをゲームのように繰り返す人もいる。

おちょこちょいの僕は、よくその穴にはまる。

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2006年9月22日 (金曜日)

思いどうりにはいかないものなのね

春江さん(仮名・55歳)は、何もする気力がないという。

20年ほど前に夫を亡くした。その時もうつになり、2ヶ月程寝込んだ。しかし、子どもも小さく、ちょうど父親が倒れたりしたこともあり、何とか気力で家事、仕事、介護と目が廻るような生活を送ってきた。

寝る時間も2時間ほどであり、このままでは「死んでしまう」と感じていたが、生活は充実していた。

10年前に父親を亡くし、子どもたちも成人し結婚、孫の出産と続いた。そして、最近、母親を亡くした。

子育てと介護の真っ最中は、「これが終わったら、旅行でもいこう」と、子どもの自立を楽しみにしていた。しかし、旅行には一度も行くことも無かった。

それが、子どもの自立、親の介護も終わった頃から調子を崩した。病院に行き、安定剤を処方してもらうが、先生は「そのうちよくなりますよ」と言うだけで、どうも信用できない。

最近、20年ほど前の忙しさが懐かしいような気がする。

再婚を考えたこともあったが、子どもの手前、考えないようにしてきた。昔はそれなりに綺麗だったと思うが、「50を超えたらね」と、誘いがあっても断ってきた。

春江さんは気に入っている歌があり、ぼおっとするとなんとなく口ずさんでしまう。

高石友也の「主婦のブルース」を。

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2006年9月16日 (土曜日)

みんなが

「みんながそう言っていますよ」

電話の主はそういう。

みんなとは、「あなた自身」であるというが、みんなと同じかどうかが気になる。みんなが「そういっている」ことを武器にする。

それでいて、主は一人暮らしである。

みんなと一緒には生活できない。人と一緒にいるとイライラするからややこしい。

不安とは、自分の中の「みんな」とうまく付き合えないことからくるのか。

私の中のこっちの私が「ああいい」、あっちの私は「こういい」はじめる。だんだん賑やかになり、収集がつかない。

どっちに行けばいいか分からないから、迷いが生まれる。

「そうでしょ。あなたもそう思うでしょ」

主は、断固と主張する。

ここで譲ったらやっと確信に繋がった一本の道がまた分かれてしまうかも知れないから、一生懸命に主張する。

でも。

「そうです」

と言われた瞬間。

別の不安が襲ってくる。

不安は自分で作っていることに気づくのは難しい。

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2006年9月 1日 (金曜日)

暗い穴の中で

アリスさん(81歳仮名)は悩んでいる。

アリスさん自身障害を抱え夫の介護ができなくなってしまった。

夫は数年前から認知症になり、最近やっと特養に入った。

やっと、落ち着いてものごとを考えられるようになったと思ったら、夫が転倒して困ると施設から連絡がはいった。

夫に会いに行くとベッドに縛られるように柵が立てられている。これでは可愛そうだ。職員に「何とかならないか」と聞いても、「転んで骨折したらもっと大変になりますよ」と言われた。

夫は、家に帰りたいと、大声を出すという。柵をしないと玄関から逃げ出そうとしたこともあったようだ。

アリスさんはいう。「毎日のように面会に行くんです。あそこにいる人はみんな家に帰りたいんです。でも、帰ってこられても困るんです」と。

施設に入れた私が悪いと、アリスさんは自分を責める。

でも、「どうしようもない」。

「どうしようもないんですよね先生」、「ねえ、どうしようもないんですよね」と、何度も聞いてくる。

せめて、面会には行きたいという。

「あたしが面会に行っても、周りの人は殆ど誰も来ないんです。捨てられたようにみんな座っているんです。どうして来ないんですか」

「答えようのない質問ばかりしてすみません」と、また、アリスさんは謝った。

「あたしは、暗い穴に落ちて、そこでじっとしていたいです。そしたら、どんなに楽だろうと考えます」。

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2006年8月11日 (金曜日)

黒い虫たち

どうして人に話をすると気が軽くなるのだろう。

ストレスというものは目に見えない。目に見えないから「そこ」にあることは分かっていても、扱いに困る。

ストレスが溜まるというように、自分の身体の中にビンがあり、どんどん溜まっていくのだろう。ビンの口までくると溢れるから、こぼれる前に口から言葉として人に話すのだろうか。

口から溢れたストレスはどこに行くのだろう。

それを受け取ってしまうと自分のストレスになるから、受け取らない。すると、世の中にふわふわと漂う。

まるで。映画「グリーンマイル」の囚人の口から小さな虫のようなものがあふれ出たように、目に見えない黒いブツブツが空気に混じって漂っているのだろう。

僕にはそれが見えない。

ストレスと言えば、昔肩がこって首が回らないことがあった。その時、カウンセリングを受けていた。先生が、その痛みと話をしろと命令した。命令しながら、カウンセラーは僕の肩から首を押し、「それはこのくらいか」と聞いた。

「もっと強く」と叫び、あまりの痛さに「やめろー、止めてくれ」と叫んでいた。

もっと強く押させて、それでいて「やめろ」もないもんだが、僕は、身体の中の「それ」に向かって身体から「出て行け」と命令しいた。

その時は、施設の上役の職員から首を押さえつけられていて、首が回らなかった。その、力から開放されるためには、大声で叫ぶ必要があったんだろう。

その時、僕の身体から黒い「虫」が無数に飛び立った。

なぜなら、それ以来10年以上経つが、肩こりや首が回らないことが一度もない。

僕の黒い虫たちは、今ごろどこを飛んでいるんだろう。

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2006年8月 4日 (金曜日)

プラス思考はスタスタ歩く

先生から「プラス思考で生活しなさい」と言われた洋子さん(58歳仮名)は、「プラス思考ってなに」と感じている。

うつ病と言われた洋子さんは、とにかく何もしたくない。出来ないことが多い。家からも出たくないし、食事の準備もできない。

出来ないことをプラスに考えて「やろう」とすると、余計にできなくなる。そんな自分がいやになり前より落ち込む。プラス思考に考えると余計に落ち込んじゃうと思ってしまう。

友達の明子さん(仮名)に話したら、それはプラス思考じゃないと言われた。

明子さん曰く、「何かをやろうとした時、出来た時は○、出来ない時も○、それがプラス思考だよ」と言われた。

洋子さん「じゃあ、食事の準備ができないときは」

明子さん「出来なくても○、出来ても○じゃん」

洋子さん「でも、食べないと体重が減って入院になったらどうするの」

明子さん「入院しても○。入院しなくても○だよ」

洋子さん「そうかも知れないけど、それじゃ何にも変わらないじゃん」

明子さん「だから、何も変わらなくても○、何かが変わっても○なんだよ」

洋子さん「うつ病は、それで治るの」

明子さん「治っても○、治らなくても○だよ」

洋子さん「わかったような、わからないような気分だよ」

明子さん「わかっても○、わからなくても○だよ。まあ、笑って暮らしてよ」

そういって、明子さんはスタスタ歩いていったしまった。

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人の世話にはなりたくない

軽度の認知症のある花子さん(85歳仮名)は、1年前に脳梗塞を起こした義雄さん(88歳仮名)との高齢世帯である。

最近、理解力が落ちて、家事も上手くいかなくなった。

電車で1時間のところに住む長男と長女が毎週訪ねて来てくれ買い物をしてくれるが、介護保険を利用しろとか、食事サービスを頼めとか煩わしさを感じるようになった。

先日も、義雄さんが買い物に行き帰りに転んだことから、子どもたちがいろいろ言い出し、最後には喧嘩のようになる。

子どもたちの言い分も分かるが、自分たちの生活は自分たちでしていきたいと思う。それに、今まで遠くに住んでいて急にああしろ、こうしろと言われても、出来るわけがない。

かといって、いろいろなことが出来なくなってきて、困っていることも事実である。

娘は「今度転んだら入院だからね」と脅す。「火をつけっぱなしで、忘れて、家事でも出したらどうするの」という。

確かに、忘れることが多い。どうしていいかわからない。

わからないけれど、何かをする気にもならない。

とにかく、人の世話にはなりたくない。

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2006年7月27日 (木曜日)

まちがい電話

「はい、○×電話です」

「えっ、あなたは誰ですか?」

「○×電話です」

「私は、小泉(仮名)ですが、あなたは誰ですか?」

「どちらにお掛けですか、○×電話ですか」

「そういうんじゃなくて、電話したんです」

「夜、電話して話をするんですか」

「そういう訳でもないけど、掛けてみたんです」

「そうですか、少しお話なさいますか」

「えっ、いいけど。あなたは迷惑じゃないですか」

「ええ、ちっとも」

という具合に話は始まる。

小泉さんは、障害があり外出ができない。支援者がベッドも回りにいろいろな張り紙をしているようで、その中から○×電話の番号をまわしたのだろう。特に何かを話したいというわけでもないようだった。

天気の話から、住まいの話。家から見える東京タワーの話からゴジラが東京タワーを倒す話になり、ゴジラもだいぶ年を取り、腰が曲がっているという話に移る。

第二東京タワーができる話から、ゴジラが倒すのは大変だろうという話になり、自分がどうして障害になったのかを話し、その間に冗談を言い合う。

「とても楽しかったです」

「そうですね、まちがい電話もたまにはいいですね」

「そうですね」

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2006年7月15日 (土曜日)

蝉も歌う

朝から真夏の日差しである。ことしはじめの蝉が鳴き始めた。蝉も、ウグイスのように、鳴き方が下手で、ミーミー頼りない声だ。

声といえば、昨夜は、電話相談のブースに座っていた。

電話は途切れるとこがなく、受話器を置いた瞬間に、「こっちの声を聞いとくれ」と呼ばれる。

相談電話の面白いところは(普通の電話と違うところかな)、時候の挨拶などの無駄な話がなく、いきなり本題に入ることだ。

「寂しいんです」と突然話される。また、「昨日、夫に暴力を振るわれました」と訴えられる。「いま食事を済ませとところです」と報告される。

なにが普通かは難しいけれど、電話に出た瞬間に、そんなことを言われる電話も少ないと思う。こちらも慣れているから、すぐに話題に参加する。

「あなたはいくつですか」なんて野暮なことは聞かない。細かいことは聞かずに話題に入る。初めて電話で話した人でも、何十年の友達のように話を聞く。同意を求められれば、「まったくそうですよね」と大きく頷く。

相手も、友達のようにこちらを心配してくれる。

「こんなに遅くまで働いていて、家は大丈夫なの」と、家族のことや健康のことを気に掛けてくれる。「雨が降っているけど、傘は持ってきたの」と、母親のように心配してくれる。「今日は元気がないけどどうかしたの」と、相談員の相談に乗ってくれる。

ある年の大晦日、相談のブースに座っていたらいつものように電話が鳴る。

「こんな年末まで大変ね。今日ぐらい休んでいいのにね」という。

「電話を掛けてくる人がいますから」と言うと、「そうね、あたしが電話を掛けているから帰れないわよね」と笑う。

「大晦日なんだから、家でゆっくりコタツに入って、お酒でも飲みたいでしょ。ビールでも飲んでるんでしょ」と揺さぶりを掛けてくる。

「一人じゃ寂しいでしょうから、紅白でも見てるの」と聞かれたので、

「ここにはテレビがない」と答える。

「じゃあ」と言うなり、声が聞こえなくなってしまう。

すると、テレビの音が遠くから聞こえてくる。北島三郎が歌っている。

電話の向こうで北島三郎が紙ふぶきの中、熱唱している。

受話器の向こうのテレビから、僕は紅白を聞いた。

こんな素敵な紅白歌合戦は初めてだった。

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2006年6月 9日 (金曜日)

相談時間

相談の時間はどのくらいが適切だろう。

利用者の満足度だけを考えると長くなりそうだ。

「前の相談員は、1時間以上もじっくり聴いてくれたので嬉しかった」といい。

「あの相談員は、電話をすぐに切ろうとしていた」という。

ポイントはどこにあるのだろうか。

満足度は、そのときの満足と、時間が経ったときの満足は違うようである。

電話では、「よかった」、「ありがとう」というが、しばらくして、再度電話を掛け、同じ話をする方がいる。表面的な満足はあったが、心も奥には届いていなかったか、腑に落ちなかったのだろう。

相談は、二人の間で、あるプロセスが進行し終了すれば、満足できる。

それは、挨拶から始まり、展開があり、「よかった」感じる瞬間があり、終結がある。

たとえ、

「こんばんわ」

「こんばんわ」

「暖かくなりましたね」

「そうですね」

「・・・今日は、やっと散歩に行ったんですよ」

「そうですか・・・、緑が綺麗でしたね」

「そうでした」

「・・・・」

「ありがとうございました、落ち着きました」

という1分程度の会話の中でも二人のプロセスの中では複雑な交流があり、終結がある。

コミュニケーションの90パーセントは非言語的メッセージを受け止める作業だといわれる。電話であっても、言葉の中に、その間に、無言の時間に、複雑なメッセージが込められ、相互にそのメッセージを共有できれば、時間はいくらでも伸びたり縮んだりする。

こちら側の、「あせり」、「わからなさ」、「ゆらぎ」などが起こると、「我慢できなく」なるんだろう。そうなると、いくら時間があってもお互いに「イライラ」ばかりが増える。

二人は無限の時間を共有しているともいえ、また、有限の時間のなかでもがくことにもなる。

二人が一つの世界に入った瞬間には、見えない電話でも相手が「見える」また「感じる」ような時間が訪れるんだろう。

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2006年6月 2日 (金曜日)

相談者の力

電話相談者は「自分は何もできない」という。

しかし、電話をすることはできる。

電話をするということは、「たいへん大きな力」が必要であり、その力を持っているといえる。そのことに気づくだけで、自分の力を認識できる。

また、電話であるので、当然話ができる。何もいうことがないので、「何か話してください」といわれる方がいる。しかし、黙って待っているだけで、自らの力で話し始める。ゆっくり、ポツポツだが、しっかりと噛みしめるように話は途切れない。

自分を語れる力があると気づくだけで、自分の力を認識できる。

また、話を聴ける。その話とは、相談員の話ではなく、自分の発した言葉が自分に返ってくるという意味で、自分の話を自分で聞けるということ。

「私はどうしようもないんです」と発した自分の言葉を聴き、「ああ。私はどうしようもないんだと、今いった。しかし、本当にどうしようもないのかしら、どうしようもないと言うことができることは、どうしようもなくないかかもしれない」と、心の中で反発が起きたりする。

自分のことが分かっていたと思っていたが、自分の口から発した言葉を聴きながら、「そうじゃない」と感じる。また、「そんなことを考えていたのか」と気づく。

そうした、自分と自分のやり取りができると気づくだけで、自分の力を認識できる。

そう、電話をかけるだけで「すごい力があるんです。

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2006年5月26日 (金曜日)

たまには笑わせてよ

電話を受けると、ついつい相手の話を理解しようとしてしまう。

要点は何だろう。問題はどこにあるのか。誰がそれを問題にしているのか。解決策はあるのかなど。

そして、話を詳しく聞いたり、自分の解釈を加える。

先日、ある女性からの相談の電話を受けた。

いくら聞いても話のポイントがつかめに、それでいて、時々面白い表現をするので、一緒に笑ってしまう。笑いが一度起こると、小さな言葉にも伝染するので、楽しい会話が続く。

しかし、相談の主旨は一向に伝わってこない。

電話を切る前に、その女性が「今日は楽しかった、こんなに笑ったのは久しぶり」と言った。

そう、その方は笑いたくて電話してきたんだとその時気づいた。

余計なことを聞かないでよかった。

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2006年5月20日 (土曜日)

電話を受けることで学ぶいろいろなこと

電話相談は、相談員のスキルアップに繋がる。

それは、電話相談の匿名性、広域性、一回性という特質により、相談者が自由に話ができ、その期待に応じられたかどうかがはっきりするからだ。

相談者は、自らの素性を話す必要がなく、自らの要求を求めることができる。つまり、相談者には自由が与えられており、気の向くまま話ができる。その保障があってこそ「安心」できる関係となる。

それでいて、双方の関係の主体は相談者だけに任されるわけではない。相談員にとっても一回の勝負であり、相談員の心のありようが相談自体に大きな影響を与えることは以前にも書いた。

相談員の力量(スキル)は大きな意味を持つが、それだけでは会話は充実しない。双方の協力関係がなければ「話してよかった」とはならない。

それでいて、会話の責任は相談員に負うところが大きい。

電話を切ったときに、「旨く電話を受けられたかどうか」ははっきりする。とくに「失敗した」ときには、そのショックは大きい。

この「旨く聞けた」という感じは、何も、相手から感謝の言葉があったかどうかではない。相手の満足と、こちらの満足が一致したときに感じられる「共感」のような、ふっとした「間合い」や「余韻」が大事だ。

毎週5件から10件、月に40件、年間500件の電話を受けることで学ぶことは大きい。相談者によって相談員としての成長を助けられていると感じる。

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2006年5月12日 (金曜日)

自然体でいこう

何気なく掛けられた言葉がうれしことがある。

相手は、それほどの気持ちをこめて言った言葉でないのにも関わらず、聞いた方は、とても重い意味を見つけたりする。

言葉の面白さであり、難しさをそこに感じる。

考えすぎた言葉より、ふと出てしまった言葉の方に力があるのかもしれない。そして、表面的な言葉の意味よりも、気持ちが伝わっているのかも知れない。

また、聞く相手が特定の気持ちを受けたいと思っている時には、どんなことを言っても、全く違う意味に聞こえるようだ。

電話の場合それが、より強い。

相談する人は、ある期待を持って電話をする。その期待がかなう言葉が帰ってくることをを期待している。自分の気持ちに沿う言葉が帰ってくると安心し、気持ちに反れた言葉だと反発する。

当たり前のことだが、それが、はっきりした関係がある。

そのとき、力が入ってしまうと、言葉に意味を持たせようとすると(多くの場合、説得しようとしたり、分からせようとしたりする)、言葉は届かない。

むしろ、言葉を話す「わたし」が、力を抜いて、『自然体』でいることが重要だ。

自然に出た言葉が一番届きやすく、聞きやすい。

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2006年5月 4日 (木曜日)

自殺統計

電話相談のレポートを作成するため、自殺の統計を調べた。

日本の自殺者は、現在3万人を越えている。明治後期では、5,000人台だった自殺者が、昭和に入り次第に増加。太平洋戦争中は一時落ちるが戦後の、昭和23年と昭和61年に二つのピークが来る。それでも、それぞれ2万3千人台と2万5千人台。それが、平成10年に31,755人と初めて3万人を超え、平成15年は32,109人である。

交通事故者がニュースになるが、交通戦争と言われた1970年のピークでも、16,765人である。その後、交通事故死者は減り、現在8千人台となっている。

それに、もう一つ意外だったのが、各国の自殺率である。人口10万人あたりの自殺率は、日本は、24.3人である。イタリアとイギリスが7人台、アメリカが10.4人、ドイツが13.5人、フランスが17.5人。主要国では、ロシアの38.7人に次ぐ数字である。(WHO,2002年報告)

日本も、95年までは各国との違いはなかったのが、95年以降急激に自殺率が増えていることが統計でわかる。

こうした問題に政府も真剣に取り組む姿勢を示し、今年3月、関係省庁の垣根を越え、自殺予防連絡協議会を設置した。

しかし、こうしたニュースは聞かない。

政府は、自殺予防を年代毎のステージを分けて取り組んでいる。高齢では、うつ病との関連を重視し、うつ予防と専門医への受診を働きかけることに力を入れたいとしている。

電話相談についても、その意義を認め、「周囲からの支えを失ったり、もともと乏しかったりして孤立しで追い詰められた末、自殺念慮や死の選択に至る過程」の中で介入する電話相談は意義があると報告している。

そして、相談員の心的サポートの重要性にも触れている。

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2006年4月28日 (金曜日)

どうしたら幸せになれますか

「どうしたら幸せになれますか」と、聞かれた。

「うーん」と、唸った。

質問者は、自分が不幸だと信じている。不幸と信じている人に、「あなたは、幸せですよ」と言っても、信じてくれないだろう。

自分が不幸だと信じるだけの経験や体験があり、それだけ深い想いが刻まれているのだろう。

しばらく、黙って話を聴き、再び、「うーん」と、唸った。

「しあわせ」は、「なる」ものだろうか。

例えば、結婚するとき、「幸せになります」と言う人がいる。しかし、結婚という長い共同生活の間、「しあわせ」を感じ続けることが難しいことはみんな知っている。

どうも、「しあわせ」は「なる」ものではなく、「感じる」ものらしい匂いがする。それも、人が感じるものではなく、自分だけが「感じられる」ものらしい。

すると、答えは、「幸せにはなれません。しかし、感じられます」となる。

じゃあ、「どうしたら感じられますか」と聞かれるだろう。

こうした究極の問いは、問いかけることに意味があり。その答えは、そのままにしておくことが良かろうと、ものの本に書いてあった。

それに、これは小さな声で言うことだが、「不幸には、不幸であることの意味がちゃんとある」んだと思う。

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2006年4月21日 (金曜日)

私のテーマは

相談のテーマは何だろう

相談にはテーマ(主題)がある。つまり、その目的のようなものだ。

電話相談の場合。電話をかけていることそのこと自身がテーマであるともいえる。電話をしたかったから、掛けているのである。

しかし、相談者は、テーマとは別の話を始める。全く関係ない話題から入ることが多い。

これは、問題が深ければ深いほど、そのことに触れられない事情があるからだろう。

天気の話かも知れないが、もっとやっかいなのは、本人自身が別のことが問題であると感じている場合である。親の介護の問題を延々と相談し、自分の意見をいい、情報を仕入れ、これで終わったかと思い、受話器を置こうとした時、実は私も薬を飲んでいるんです、とボソッという。

じゃあ、はじめからテーマの話をすればいいじゃないかと思うだろうが、そうはいかない。そこまで到達するのに時間がかかる。時間がかかっても、そこに気づく人はいい。何度も、相談をするのだが、自分のテーマが分からず、何度も何回も、同じ相談をするひとの方が多い。それくらい、自分のテーマに気づくことは難しい。

相談員も、「あっ、この人のテーマは別のところにあるな」と、気づくことがある。(気づかないといけないんだろう。)

しかし、「あなたのテーマは、それじゃなく、これです」とは言わない。ただ、話を聞く。

ただ、相談者をもうちょっと押してあげれば出来るだろうというときは、「いま、こんなことを言いましたね」と、なんとなくいう。また、「その話をしているときは、声が苦しそうですね。あなた自身も辛いんでしょう」と、相手も気持ちを言ってみる。

そんな話が出来るのは、相手のペースで充分話しを聞いた後である。つまり、一方的に話を吐き出す人も、息継ぎをする。息を吐いてばかりだと苦しくなるから吸い込む。そのときに、ちょっと言ってみる。不思議に、息を吸い込むときには、相手の意見を聞くように身体が出来ていると思う。そう感じる。

あくまでも、ちょっと。軽い気持ちではなす。相談員が言っているのではなく、相談者自信の頭の中の声のようにボソッとはなす。

「そう、私も疲れていたんです」と、自分のテーマについての話にガラット変わる。二人の間の空気感がかわる。

しかし、相談員自身と同じテーマを抱えている相談者に対することはなかなか難しい。

なぜなら、相談員自身も自分のテーマを抱えながら生きいるから。

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2006年4月 7日 (金曜日)

安心とは何だろう

電話で相談を受けていると、「周りの人がやさしくない」と不安を訴える人がいる。

福祉の人は優しいはずなのに「冷たい人がいる」、行政は市民の見方のはずなのに「ちっとも親切じゃない」という。

果たして、行政は市民の見方であろうか。歴史を見ると、為政者は市民を犠牲にして戦争を起こし、虐殺を繰り返している。市民の見方ではなく、市民を利用して権力を握っていたようである。

福祉や教育、医療の現場はどうであろうか。新聞の記事を見るまでもなく、いい人も居れば、悪い人も居る。

では、どうして回りに期待してしまうのであろうか。多くの場合、人生を自分の側から見ているからだと思われる。

最近になって、「人間は必ず死ぬ」ことや、「マイナスの思想」を、養老孟や五木寛之が話し始めたこともあり、注目されているが、自分は死なないと考えている人が多い。

死ぬことを考えては生きてゆけないというふうに、人間は作られていると思う。だから、100歳を過ぎて、「いつでもお迎えに来てもらっていいようにしてますから」といい、次の瞬間には、甘いお菓子に手が伸びている。

理性では、分かっていることでも、腹の底では何かを期待しているから、つい愚痴を言いたくなる、誰かに期待したくなる。そんな弱い存在だと思う。

そうした、「生きていくことの意味」に答えを出した人の一人に、ヴィクトール・フランクルという人がいる。

フランクルは、オーストリアの精神科医である。ユダヤ人であるフランクルがナチスの手で収容所の捕虜になり、そのときの体験をもとに書かれた「夜と霧」で有名である。

しかし、フランクルは、逆境の心理学者としても知られている。

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2006年3月24日 (金曜日)

黙って聴いてほしい

木曜日は電話相談の日。

相談の電話は感情的にならずに聴けるのに、日々の電話には時に感情的になる。特に最近、行政との電話には感情的になる場面が多く、受話器を置いてから「いけない、いけない」と独り言をいっている。

それにしても、役所というものの考えたかはいかがなものか。頭にくる。

そう、そんな相談電話をもらうことがある。

「役所に電話しても、まったく人を小ばかにした対応で頭にくる」という。

いかに頭にくるかを具体的に聴く。「そうなんだ」と、まったく同感するときがあり、「そう」と少し同感することもあり、「ふーん」とただ聴く場合がある。そのうち、「もういいわ」という時間が来る。必ずくる。すると、気分が変わり別の話になったり、「聞いてもらってありがとう」となったり、気持ちの変化を生まれていることがわかる。

つまり、気持ちを汲んでくれない役所の対応に頭にきている。

そうなんだ、ボクの気持ちを汲んでくれない一方的な物言いに頭にきているわけで。

みんな、聴いてほしいんだよ。黙って。

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2006年3月17日 (金曜日)

嵐のあとの月

木曜日は仕事を終えてから電話相談をしている。

8時から12時までの4時間椅子に座り電話を待つ。

相談員3人で、一日15件から20件程の相談を受けるが、それでも、話し中のコールが鳴り続けることが多い。

初めての人があり、常連の方がいる。いつもの声が聞こえ、いつもの話が始まる。

「また、お会いできて嬉しいわ」と、電話の相手にとっては暫くぶりにあう友人のように、今日の出来事や悩み次々と飛び出す。

声だけが頼りだから、相手の声に集中する。その日の疲れもあり、4時間集中すると身体が疲れていることが分かる。

昨日は、外は嵐。電話の中では笑い声が続き、楽しい時間を過ごす。

12時、戸締りをして外に出る。雨が上がり、ビルの間から輝くような月が出ている。強い風に白い雲が流れている。春の暖かい風になかふわふわと歩いていると、どこかほかの星に来たような気分にさせられる。

「ありがとう」の言葉があった日は、帰りの足取りもふわふわしている。

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2006年2月25日 (土曜日)

傾聴できない自分を受容する

相手の話を聴けなくなるときがある。

耳を傾け相手の話を聴こうとするが、なぜか聴けないときがある。体調が悪く集中できないときもあるが、調子とは関係なく、耳に残らない、反発したくなる。

充分に聴けるときは、自分の心に{心地よさ}が残る。相手の言葉を味わう時間がある。

聴けないときは、相手を「拒否」してしまっている、「受け止められない」自分を感じる。

もう一つ、相手を「助けてあげたい」という強い想いが、相手の言葉をさえぎってしまうこともある。

こうした状態を「まきこまれ」という。「まきこまれ」は、自分の感情に、また、相手の感情に巻き込まれている状態だろう。

しかし、全く巻き込まれないのでは援助はできない。

その、距離がとても大事になる。

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2006年2月23日 (木曜日)

正座をして聞く

電話は相手が見えない。相手が見えないということは、こちらも見えていない。

話をしていると、だんだん声が遠くなることがある。どうしたのかと心配して聞くと、寝ながら電話をしていて、受話器が重くなってきたという。

お茶を飲みながら、何かを食べながら電話をしてくる人もいる。

聴くほうは、しっかり座って聞いている。踏ん張って聴かないと、しっかりした応対はできない。「ありがとう」というときには心の中で手を合わせていないとと相手に伝わり難い。

言葉と、動作は一体である。電話だから、見えないからと、体操をしながら話を聴いていると、相手には声の違いが分かる。

見えないだけに、雰囲気が通じる。だから、やさしい言葉遣いをしても、ほんとに優しい人でないとだめ。だから、電話で謝るのはすごく難しい。できれば、電話で謝らないで、伺って謝ったほうがいい。

先日時間を間違えた。ほんとに申し訳ない。

電話の前で何度も頭を下げた。

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2006年2月 2日 (木曜日)

プロセスをたどる

電話相談でプロセスをたどるとはどういうことか

それは、傾聴だけではない。なにか、相談者の感覚的な雰囲気をたどることのような気がする。

果たして、これからどこに行くのだろうかと思う相談がある。話の内容がバラバラで、ついていけないと感じるときがある。しかし、ただ話に辛抱強くついていくと、話が変わる、トーンが変わる、スピードが変わる、そんな瞬間に出会う。

傾聴することというより、相手のリズムに合うような聴き方が出来ているときに、そんな雰囲気がやってくる。決して、話を捕まえることなく、ふんわりと包み込む。

相談者の中で、変化が起こってくるときがある。自分の言葉を自分の耳が聴き。自分の言葉に答えようと、次の言葉が生まれる。「そうよね」、「やはりようよね」。分かっていたことに、あらために気がつき、腹の中心に何かが落ちるように、軽くなる。その感じは伝わってくる。

うまく聴けているな、そう感じる。しかし、傍で聞いている人にはそれは通じない。分かり合えるのは、プロセスを共有している二人だけである。

そうよね。

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2006年1月21日 (土曜日)

言葉が切れない

電話を受けることが多い仕事である。

僕自身は、電話が嫌いだ。

小学校4年生のときに家に電話が来た。黒く重い電話だった。父が部屋の中央ドンと置き、家族みんな、黙って黒い電話を見つめた。

しかし、誰からも電話がない。それまで、呼び出しの電話だったから、電話が掛かってくるのは急用か、悪い知らせと決まっていた。「羽武戸さんでんわだよ」と呼ばれ、隣のおばちゃんに受話器を受け取り、大人が話をするものと相場は決まっていた。

だから、ベルがなっても取れなかった。取ってもどう切り出していいものか分からなかった。それは、今でも同じ。

それに、小学生から吃りだった。そば屋に入っても、「タヌキそばください」がいえないくらいの吃りだった。人の顔を見ても話ができない少年が、電話で話ができる訳がない。当然、電話嫌いになった。

しかし、高校生になってから、好きな人ができると、何時間も電話した。その時は不思議と吃らなかった。

失礼、この話をしようと思ったんじゃないんです。

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2006年1月13日 (金曜日)

宇野千代さんの人生相談

たしか、宇野千代さんだと思う。

宇野さんの人生相談は、他の人の相談と全然違うと聞いた。

まず、相手の話を聴く、黙って聴く、そして、最後まで聴く。

それから、話しがはじまる。

「あなたは、親のことで困っているのですね。そして、その人が・・・と言ったのですね。・・・ということですね。」と、[言ったのですね]攻撃が始まるという。

それは、新聞の人生相談でも同じだったようだ。回答の半分以上は、相談者が言ったことの繰り返しで埋まっていたという。

しかし、宇野さんから言われると。「私は、親のことを・・・と言ったのだ。わたしは、・・・と考えていると言ったのだ」と、自分が何を言ったのか、宇野さんの口から、宇野さんの声が聞こえてくる。すると、こんがらかっていたことが、ほぐれるように、一本の糸になる。

そして、宇野さんはわたしのことを聞いてくれる。私のことを知っているという気持ちになるという。

宇野さんが私の全てを知ってしまったら、(そんな気分になったら)           「まいった、ごめんなさい」という気分になるだろう。

自分の言葉が、そのまま、人の口から出る時の力はすごい。

まー、わたしが、「あなたは、いま、困っているといいましたね」と言っても、少しも重さがないのは明らかなので。あと、30年位したら、言ってみたいと考えてます。

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2006年1月 5日 (木曜日)

おしまいが大事

電話相談は、1分で終わることもあれば、1時間以上続くこともある。

しかし、終わらない相談はない。

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2005年12月31日 (土曜日)

さびしい夜

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