2008年2月23日 (土曜日)

拘り

巻き込まれた。

そのとき急に頭が止った。

聞かれていることに応えられない。

実は、答えたくないという気持ちがあった。

冷静に振舞っていても、相手を拒否しているものを感じている。

冷静に考えれば、やり過ごすことが出来るとこが、できない。

相手がこだわっているようでいて、僕自身の拘りが、話をややこしくしている。すると、こちらの弱味を握ったように攻めてくる。

迫られると、余計に拘り、頑なになるというスパイラル。

終わってみれば何でもないことのなのに、大汗をかいた。

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2007年12月28日 (金曜日)

どう、話さないか

電話相談の場合、傾聴や相づちの大切さを言われることが多いが、最近、話をしない技術のようなものの大切さを感じている。

話すということは、情報(感情も含めて)を伝えることだと思う。

話をするからには、相手に理解して欲しい。何かを捕まえて欲しいと感じる。

そこのところが「ちょっと違う」と感じたとき、黙っていることは苦痛となる。話をしないことで、違いが大きくなると、もう相手の言葉を聞かずに、どういう言葉で理解してもらおうかと頭が働き出す。

傾聴とは聞き方である。話さない行為は我慢である。

これは似ているようで全く違う。

話を聞くことが上手い人が、話さないことが得意とは限らない。

これが役に立つ場所がある。

家庭である。

家の中で、親子で、夫婦で傾聴しながら生活する人は少ないだろう。もし、妻から、「フンフン、それで」と話を聞かれたりしたら、言わなくてもいいことを話してしまい、結果として夫婦関係がまずくなることは目に見える。

しかしである。

話をしないことは、夫婦関係にとって重要だ。(我が家の場合はね)

この場合、余計な事をいわないこと、いいたい事を我慢することをいってます。

大体、話をしたことの90%は、いわない方がよかったことだと感じている。

しかし、その我慢が中々できない。

どうしてこんなことを書いているのかというと。

今も余計なことを言って、後悔しているからだ。

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2007年10月18日 (木曜日)

疫病神

もうだめです。

と云いながら、次第に大丈夫でしょうかと聞いてくる。

「大丈夫でしょうか」と話されるようになると、もう、自分では大丈夫だと感じている。

信じることは実現する。

悪くなりそうだと云う人は、悪くなる必要がある。

そんなことはないと云うだろうが、どこかで、悪くなることを期待している所がある。

なんでこんなに不幸が訪れるのかという人がいる。

自分の周りには悪いことばかりがおこり、疫病神が付いているとしか思えない。

そういえば、いま、「憑神」という小説を読んでいる。

道端の祠に手を合わせたら、それは、疫病神だった。

運命を託すために手を合わせたのに、それが疫病神だったら、もうどうしようもないと感じる。しかし、主人公は、疫病神と友達になる。

疫病神は、あまりに不幸な人生に涙を流す。

疫病神から哀れみを受けるほどの哀れな人生というのは、相当なものだろう。

その、相当に不幸な人生は、疫病神をも見方にしつけてしまう。人生が変わってくる。

不幸が人生を変える。

それは、小説の世界での出来事だけど、信じれば実現する。

疫病神に取り付かれているのなら、それもまた面白いのかもしれない。

そういえば、今日、前のほうに座っている人が疫病神のような顔をしていた。

よく見たら、鏡に映った自分だった。

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2007年10月 7日 (日曜日)

溺れそうな僕

生活には波がある。
それは、星占いにも現われている。
今年は、いて座にとって最高の年であるというが、それでも、星回りが悪い日がある。
運の悪い日には悪いことが重なる。これは間違いない。
それでも、何とか軽くすることはできる。
何をするかといえば、何もしないようにする。それが一番。
電話相談においても同じ。
如何に力を抜くかが難しい。
抜きすぎると、眠くなる。無駄な部分の力だけ抜く。これはかなりの技術がいる。
考えすぎると何もできなくなり、余計に力が入る。頭が良すぎるのもよくない。知っていることと、教えることが違うのと同じように、聞くことと聴いていることは違う。
聴いているようで聴きすぎない聞き方ができると相手もこちらも楽になる。
そう、こちらの力が抜けると、あちらの力も抜けるのだろう。
波に乗っているだけでいい。
浮いているだけでいいんだろう。
でも、どうしても漕ぎたくなるんだよね。



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2007年9月21日 (金曜日)

大きく息を吐いた

ブースに入る前に大きく息を吐いた。

そのせいか、いつもより余裕が持てたような気がする。
話を急がず、待つことができたようだ。そうなると、終わり方に違いが出てくる。
この辺の呼吸は面白い。
いつもだって焦っている訳ではない。きちんと話を聴こうとしている。

対人関係には深さがあるように感じる。

こちらの調子とあちらの調子が関係する。
こちらが余りに調子いいと「頑張ってしまう」傾向があり、上手くいかないことにもなる。
あちらさんだって、話したい時もあれば、聴きたいときもある。

また、テンポ、リズムが大きく二人の関係を左右する。
大きく息を吐いたのは、一呼吸置くことを意識づけるため。
あちらさんの言葉に対して反応を遅くすることで、間ができる。
とくに僕の場合は待つことができない。しかし、間が持てると、待てるようになる。

すると、いつもより早く終わったりする。

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2007年9月 9日 (日曜日)

分かることの罠

相手の悩みが分かってしまうときがある。
分かると辛い。
なぜなら、自分も同じ悩みを持っているから。だから、そこから抜け出したい。すぐにでも、逃げ出したい。そうしないとどんなに危険な状態か知っているから。
そうした時、あまりに深くコミットしてしまうため、自分を見ている自分が゛消えてしまう。
それまで、゛そういってもね、大丈夫じゃない゛と言ってくれていたあの人が居なくなる。
自分の心が一致してその人めがけて突入しようとする。気が一本なので、気持ちがよく、高揚感がある。
気がつくと、アドバイスをしていたり、最高の提案をしている。だいたい、自分で最高の提案だと感じるアドバイスほど、どうしようもないものはない。
相手は、その提案に魅力を感じることはあっても、受け入れることはない。だって、自分で考えた案じゃないからね。
そして、゛この人、私のこと分かっていない゛と感じる。
どこか違っていると感じる。
そうなると、どんとんズレが大きくなり、修正不能に近づく。
それでも、僕は、懸命に説得を続けようとする。気分的には、「もうすぐだ」と感じている。
しかし、現実は、もうすぐ関係は終結するとも知らず。

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2007年9月 7日 (金曜日)

パーソンセンタリング・アプローチ

相談者中心アプローチ(パーソンセンタリングアプローチ)を心がけているが、巻き込まれてしまうと問題解決型のアプローチをしていることがある。

問題を抱えている人は、相談者であるのに、その問題を解決しようとしたり、解決できると思い込んでしまう。
ディブ・メアーズ著「パーソンセンタード・カウンセリングの実際」によると、“「賢いと」思われたい気持ちに注意する”と言っている。
自分が賢いと思っている人は少ないだろうが、賢くないと思って相談を行っているカウンセラーも少ないだろう。
つまり、相談をする側にいると言うことだけで充分に過信する要素を持っていることになる。クライアントを救いたいとか、助けてあげたい、又は、自分の援助によってクライアントが変わるのではないかと信じることは多い。
そうした確信は経験を通じて作り上げられるし、実際に上手く行くこともある。ここが難しいところだろう。
相談者の問題が見えてしまう時がある。それは経験上、彼(彼女)は今、こういう問題に陥っているから、アプローチはこれだという具合に。
しかし、たとえその場は問題が解決できたように見えても、また、相談者が感謝の言葉を話したとしても、相談者の本質は全く変わっていない。

相談は、カウンセラーのためにあるのではない。
しかし、問題解決アプローチは、相談者よりカウンセラーの満足度を高める効果があることも事実である。
そうしたアプローチを何度やっても、クライアントは違った問題を持ってくることになる。そして、カウンセラーを試すように、より難易度の高い問題を持ち込んでくる。まるで、予備校の先生が、より難しい問題を解決した時に褒美をくれるかのように。
そうしたゲームから抜け出すためには、「クライアントと共にいること(プレゼンス)の質の向上に努める」と、メアーンズはいっている。
共にいるとはどういうことだろう。
クライアントのプロセスに従って、側にいること。

昨日も、ゲーム好きな僕は、誰が主人公であるのかを忘れ、相談者の見方になれると信じてしまった。
他人の人生を生きることはできないと知っているんだけどね。



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2007年8月17日 (金曜日)

誰かいませんか

ちゃんと受けとめようとしたのに上手くいかないことがある。

「それは、ちゃんと受け止めていなかったんだよ」という声がどこからか聞こえてくる。

気持ちがかみ合わないからお互いに不全感を感じる。なんだか嫌な気分になる。

そんなときには、往々にして、初めから「いやだな」という気分になるものだ。そして、「やっぱり駄目だった」ということが多い。

頭よりからだの方が正直で、真実の気持ちを感じやすい。(それを信じられるかどうか)

話の途中で「これは言わないほうがいいな」という言葉が頭に浮かんでくる。言わないほうがいいけれど「言いたい」。

その悪魔の誘惑に負けてしまう。

そして、またしても関係がこじれる。

その言葉は、相手の「痛いところ」をついている。

そんなものだから、相手にとていつまでもその「言い方」が残ってしまい、言葉の意味より、「嫌な感じ」だけが大きく膨らむ。

つまり、初めから「上手くいかないゲーム」をしているようなもの。

相手は引っ掛けるために会話を初め、こちらも引っかかるために会話に参加している。

こんな不毛な会話に参加しなければいいだろう思うだろうが、そうは上手くいかない。こちらが出向いていかなくても、向こうからやってくる。

やってくる人を追い返す訳にも行かず、終わってみれば、自分の無能さや性格の未熟さを感じる。

ソーシャルワーカーは万能の力を持っているわけではない。自分の能力以上の課題を受け止めることはできない。

「あっ、これは自分では受け止められないな」と気付いたときには、早めに、誰かに代わってもらう必要がある。

そういっても、代われる人がいないことのほうが多いんだよね。

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2007年8月10日 (金曜日)

二股

「外に出られない」と山田さん(仮名)はいう。
「ところで山田さん。外に出られた時、どんなことをしたいですか?」と聞いてみた。
「・・・・」
山田さんから返事はない。
しばらくして、山田さんはあることに気づいたような顔になった。
「そういえば、外に出てもすることが見つかりません。あんなに外に出たいと思っていたのに、いざ出られた場合を想像すると、したいことが何にもないんです」という。
「それじゃ、外に出られないんじゃなくて、外にでる必要がないって事ですね」
「そうかも知れません。でも、家の中に居ると死にそうに苦しいんです」

 悩みの原因が分かっても悩みそのものが解決する訳ではない。外に出られない山田さんは、今まで夢中になって働いていた。むしろ、家に居ることが少ない生活をしていた。それがある事情で家に閉じこもってしまった。仕事を辞め、家に居ると、あんなに一所懸命に働いていたのは、家に居たくないからだということが分かった。分かってもどうしようもない。

 選択する道が2本ある。自分が行きたい道がどっちかは分かっている、分かっていてもそっちにいけない事情がある。だから、二股に分かれた道の分岐点で立ち止まって身動きができなくなっている。

 「今日話してよかったことが一つだけあります」と、山田さんはいう。
「どんなことですか」
「どうしようもないということが分かったことです。たぶん、当分迷っていると思います。でも、そのうちどちらかに歩いていくようになるんじゃないかと思います」と言った。
「そうですね」

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2007年7月 6日 (金曜日)

意味を探す

電話が鳴り止まない。
受話器を取ると、突然「いつも繋がらないわよ」と言われて、「すみません」と謝る。
電話は便利である。
家にいながら相談ができる。相談に乗ってもらい、問題を解決できると信じる人にとっては、利用する価値はある。
しかし、そんなことはあるだろうか。
電話をして、自分の悩みをいい、「さあ、解決してくれ」と云われ、「それはですね、・・・・をすると、たちどころに問題は解決いたします」と、そういう訳にはいかない。
そんなことは話をする人だって分かっている。
分かっていても、何らかの「答え」をもらえるんじゃないかと期待したい。
じゃあ、電話相談をしても無駄か?と聞かれれば、「無駄」だと思う。
にもかかわらず、「無駄」なコトを積み重ねると、「意味」あることになるのも本当だと思う。
「じゃあ、無駄じゃないのか?」と聞かれれば、「そうかもしれない」と思う。
「どっちなんだ」と言われる。
「どっちでしょうね」といわざる得ない。
ただ、「何もしないよりはいいかもしれない」と思う。

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