2014年4月29日 (火曜日)

バットを振ってもボールには当たらない僕の悩み

専門家の知では、ボールが投げやれた時、自然にバットが出る。
するとバットはボールに、ボールはバットに向かってぶつかる。

イチロウなら3回に一回くらい。

それを説明しようとしてもできない。
川上なら[ボールが止まっていた]と言えるし、長島なら[ただバーとやって、ブーンって振った]と言えるかもせれないが、凡人には何が何だか分からない。

プロは練習に練習を重ね、それを身につける。

北島康介はあんなに上手に泳ぐのに、それでも毎日プールに入っている。
平泳ぎは、クロールと違って、水の抵抗に逆らって泳ぐ。だから、少しでも力やフォームがブレても早く泳げない。それは芸術的な動きでしか達成できない技。そこに専門家の知がある。

彼らは、「無意識に的にそれを行う方法を知っている行為や認知や判断がある」と、ドナルド・ショーンは言う。

そうした専門家の知はを、プロの医師や弁護士、税理士や教師は持っている。

ソーシャルワーカーのそれはどこにあるのだろう?
というのが今年のテーマです。

私たちは行為しながら省察している。

専門的判断は一瞬のうちに行われる。それをするのに躊躇はできない。そして、殆どの判断は後日正しかったと評価されるか、他の選択肢はなかったと反省する。

その時、どんなことが起きているのだろう。

私たちは、一度会った人の顔を忘れない。その人の名前は覚えていなくても、会ったことは覚えている。また、その人が私に危害を加える人かどうかも一瞬のうちに分かる。

それでいて、同じ人に騙される。

のこ編の塩梅も不思議である。

つまり、この人は自分を騙すと気づいていながら騙される訳である。この辺が振込ませ詐欺が減らない原因の一つかもしれない。

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2013年5月 2日 (木曜日)

他人の死

死には、一人称の「死」=私の死と

二人称の「死」=あなたの死

そして三人「死」=他人の死がある。

私の死は最後まで体験できないが、家族の死や、仕事上の付き合いの「他人の死」は、時には、最後までお付き合いすることになる。

それを仕事として取り組んでいる人がいる。

他人の死に対して、医師や看護師等の専門職は距離を置いて捉えることができるといわれてきたが、そんなことはないという論文も見られるようになってきた。

これは、専門職はケースに巻き込まれないで客観的であれという教育によって押し込まれていたものが、表面に出てきたためだと思われる。

専門職であっても、その関わり(関係、思い入れなど)により、家族以上の影響を与えあっている場合があり、当然、患者の死という出来事により大きく「ゆらぎ」を体験している。

私でない人を他人と呼んだ場合、それが家族であってもそれ以外でも、関わりによって心理的な距離は違ってくる。

その距離は、仕事上で変わるというより、援助者の内面にあるものの影響が大きいということが今回のインタビューから浮かび上がってきた。

たとえば、最近自分の身内を看取った。幼い頃に両親と分かれその親と患者の年が近い。クライエントが大好きだったお父さん(お母さん)の顔に似ている。自分も同じような病気を抱えているなどなど。

自分とどこかを結びつけることで、感情的な共感が生じ、援助関係の深まりを感じる。

自分とのつながりを探す作業は援助関係には重要であるが、終末期のクライエントの場合、クライエントの死との同化という問題が出てくる。

援助関係は、求められる→それに応えるという関係である。そして、矢印に相互交流が生まれるとき、二人の関係は深まる。

求められることは、たとえマイナスの関わりであっても、何もないよりはエネルギーの原料となる。

その力が消えてしまった時に、援助者にどんなことが起こるのだろう。

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ターミナル期

ターミナル期の対人関係では、どうも、本人のエネルギーに吸い寄せられる傾向がある。

そのエネルギーは、本人が発するエネルギーであると同時に、ターミナル=人が死んで新しい世界に入る(これはあくまで個人的解釈です)という未知の出来事から生まれるエネルギーだと思う。

その時、僕たちはどこかに引っ張られてしまう。

そのどこかっていうのは、自分の過去の場合が多い。あるいは生まれたことの方へと云えばいいのだろうか。

死に向かう作業をしている人に関わることは、もしかしたら、生に向かうことと近いのかもしれない。その生は、今を生きるという「生」であると同時に、生まれたこと、生まれる前の歴史ということまで含まれる。

先日見たタイの映画でも、死をまじかに感じている人のそばに、すでに死んだ人が現れる。そして、彼を待ち、生まれ変わることを導く人も登場する。

死の意味を解釈として、生まれ変わりがある。

終わることの意味として、生まれるという解釈は、ターミナル期にある人にとっての救いであり、それを見守る人にとっての希望である。

それと同時に、援助者にとっては、今を生きることを考える時期になる。

それは、支援者をしっかり支えてきたのだろうかという問いかけと同時に、「わたし」はしっかり生きてきたのだろうかという問いであり、「わたし」は周りの人にしっかり関わってきたのだろうかという確認である。

そういう力を感じる時間である。

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ペース

インタビューをし、それを録音し、聞く作業を続けている。

すると、話をする、話を聞く、相槌をうつ、沈黙・・・。二人の間には「間合い」と呼ばれるような空間があることに気付く。

この間合いあるいはペースが、僕に場合とても速い。

相手の話にどんどん介入してしまう。

それは、話に 質問をかぶせるという行為だけでなく、むしろ「気」が前のめりになっているような感じである。

インタビューをしているときには感じない出来事であり、その時には、上手く聞けていたと感じることでも、録音を聞くと、はやり「はやい」と感じる。

この速さは「待てない」ことからくることは分かっている。

待てないとは、その話に興味や関心があり、面白いからもっととせがんでいるような気分。それは、芸人が早口でポンポン話題を提供したり、場を和ませたり、笑いをとったりすることに近いのかもしれない。

芸人はそれでいいが、インタビューだと後に残らない。うわべの話になる恐れがありそうだ。

でも、何をそんなに急いでいるのか。

もしかして、好かれたいと思っているのかもしれない。

好意を持つことや、好意を示す時には、僕たちはどうも前のめりになる傾向があるのかな。

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