対人援助に於ける「待つ」を考える
対人援助に於いて「待つ」ことは、基本であり、中心的課題となる。
待つことを考える場合、すぐに浮かんでくるのは、「ゴトーを待ちながら」だ。(あくまで個人的な興味です)
ゴトーとは、ゴッド(神)だと云われている。
神を待つとは、希望を待つことに繋がる。何に対する希望というのではなく、人生に対する希望というような命題だろう。
そこには、既に待っている人が居る。
その存在が大きい。
「もしもし。誰を待っているのですか」とは聞かない。何かを待っていることは明らかであり、その待つという行為自体がその人の人生であるからだ。
しかし、既に待っている人は、一体いつから待っているのだろうか?
それは、以前からであり、待ち続けるうちに時間を超越してしまっている。
神の約束は、歴史の中にあり、それは人類に対する契約として記されている。
待つことに意味はあるのか?
意味とは何だろう。待つことは行為であり、時間という人生に関る。
待つこと自体が意味を持つ。
他人から見ると暇つぶしのように見える。無意味に見える。何もしていないように見えるかもしれない。
しかし、それでも待つことを続ける。
「私には関らないで」と強い拒否を示していた女性から援助を希望する電話を貰った。
3年間待った結果の電話だった。
何が変わった訳ではない。待っていたらそうなっただけである。
そして、その希望さえも変化するかもしれない。
それでも待っていたからこそ、その変化に立ち会うことだできたことは確かだと感じている。
芝居の中でゴトーは現れない。それでも観客としての自分の中に確かな変化が起こっていることを感じることができる。
その感じは、感じる人にだけ訪れる救いのようなものだと思う。
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