2014年10月18日 (土曜日)

緊張が止まらない

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面接でリフレーミングを行うことがあるが、自分のフレームの取り方に縛られることが多い。

今日も、結果としては、予定どうりに進んで行ったが、途中は緊張した状態が何度かあった。

ジョイニングのプロセスを経過し、先を急ぐ気持ちが、ゲームになりがちな関係を誘う。

それh、かなり魅力的で断るのが惜しいお誘いであるが、さっさと切り上げることができた。

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2014年4月 8日 (火曜日)

名前を呼び合う関係

援助関係では、相手の名前を呼ぶことができるかどうかは大きな問題だ。
これは、能力の話ではない。
声に出して名前を呼ぶことができても、その呼びかけに反応ができない状態では、次回も同じように呼びかけることはない。
そうなると、名前を呼び合う関係ではなく、名前を呼ばない関係となる。

クライエントの名前を呼べることはワーカーにとって喜びである。確かにここに私の支援する人がいるということを確認できる。私のことばが届く所にその人がいて、私の声を聞いている。

この、私のとあなたの関係は相互に影響を与える。

だから、名前を呼び合わない関係になると、急に関心がその人から別のモノにうつる。

環境を変えること、サービスを変えることなど。

それは、直接にクライエントと対峙しない関係である。
名前を呼べない人に接近し時間を共有する事は、ワーカーにとって苦痛になる。

これは、短な人でも同じだろう。

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2014年3月14日 (金曜日)

原稿作成

一日、明日発表する原稿の作成。
もっと前から取り組めばいいものと思いつつ。

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2012年12月24日 (月曜日)

木と森の空気の関係

ワークショップで様々な取り組みを行う。

医師が手術の件数によりベテランと呼ばれるように、カウンセラーがクライエントとの面接を何百時間と繰りかえりして専門家と呼ばれるように、政治家が街頭で毎日演説をすることで口が滑らかになるように、ソーシャルワーカーも援助実践のなかで対人援助の見立てをする。

それは、多くの場合、うまくいく。

しかし、先日初めて「まずい」と感じた。

その時、相手との交流が途絶えてしまった。

さらに「まずかった」のは、それをくり返したことである。

ワークショップなので、あくまでも練習である。しかし、その練習のモデルとして僕の取り組みがいつもと違っていた。

どうしてだろうと周りをみた。

対人援助の練習として二人で取り組んだ。僕には目の前のクライエント役の人しか見えていなかった。

つまり、環境としての場のシステムへの配慮が足りなかった。

クライエント役が自然にふるまえるには、それなりの自由さが必要になる。そんな基礎的なことを忘れていた。

取り組みに集中できない。そのことの原因を二人の関係にばかりに気を向けてしまい、環境への配慮ができていなかった。

それから、気を取り戻し、グループの力動を活用する方向に進めた。

途中で見立てを変えたことはよかったが、僕の動揺はしばらく続いた。

木は森の中にある。そして、森は森として息をしている。

僕も、森の中の一員である。

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2012年11月10日 (土曜日)

スピリティアル

いのちと倫理と宗教ー看取りケアのスピリチュアリティーという講座に出た。

その中で、亡くなった人たちとの再会があった。

僕の仕事は、いのちに関わる仕事であり、人が亡くなるときの手助けをする仕事だということに改めて気がつかされた。

ターミナル期における認知のプロセスを研究のテーマにしているということもあり、刺激的な講座だった。

苦悩を受け入れる、悲しみに留まる、人生の確認の時期、存在の肯定、意味への問い、不条理の問い、佇む時間、死へのストリー、自らに問いかける、絶対的な存在などなど、新しい概念を掴むことができた。

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2010年10月20日 (水曜日)

立っているのがやっとです

10日程前に、8時間話をする仕事をした。

話をすることより、立っていることが辛くなってきた。

立っていると云っても、殆ど歩き回っている。それは、まっすぐに立っていることが辛いからだ。

まっすぐに立つということはなかなかできず、右か左に体重をかける。その姿勢が続くとからだが歪むような気分になる。

だから歩いていた方が楽になる。

それでも、去年よりもいい構成だったと自己評価している。

来年も呼んでください。

体力をつけときます。

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2010年3月31日 (水曜日)

援助する機械

池袋のパルコで封書・オープナーを買った。

さっそく、届いた封書を5通開けた。

左に封書を入れると、右に送りながら、切ってくれる。

電池が入っていて、2枚の刃が動く仕組みになっている。

もっと、もっと、開けたくなったが、もう開けるものがないのが残念だった。

左から右に受け流すの機械だ。

どんどん受け流すうちに、受け流し方が上手になるといい。

これで、1050円です。

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2010年1月10日 (日曜日)

DV

フレデリック・ワイズマンの作品「DV-ドメスティック・バイオレンス」を観た。

フロリダ最大のDVシェルター「スプリング」を取材し、コメントやナレーションの一切ない映像が195分続く。

DVが家庭内の暴力であり、日本においても名前が知られるようになってきている。家庭内の問題が起きるとき、それは夫と妻の問題ではなく、その家庭を取り巻く様々な環境・地域社会の問題【ひずみ】があるということは想像できる。

映像では、DVの被害者は妻や女性だけでなくそこにいる子どもについても大きく取り上げている。さらに、虐待の被害者の多くが、その後再び虐待を繰り返す。そうすることで、虐待の連鎖が起こり、被害者は膨大になると警鐘しいる。

ソーシャルワーカーが地域の婦人団体【たぶん】に説明する際に、虐待を受けた子供が再び虐待を繰り返す可能性は、そうでない子供の7倍(もしかしたら700倍)と説明していた。

DVの発生には地域差があることはよく言われることで、DVが人種や教育、環境の悪化が原因だといわれる。しかし、DVが起きる家庭の問題は、その地域の問題であり、その地域はその広域社会【行政区】の問題であり、そして国の行政の問題の表れである。

アメリカで起きているDVはアメリカ社会のひずみの一部であり、社会のゆがみがそこに集中するシステムがあるのだと想像できる。それは、日本においても同じだろう。日本には日本特有の家庭内暴力とそれを隠そうとするシステムが存在する。

映像の最後に、通報を受けた警官が男女間の仲裁に入る映像が映し出される。警官のスタンスがとってもいい。どちらが加害者でどちらが被害者であるという接近の仕方をせず、法律と人権という道具で粘りずよくかかわっている。この辺も、人権社会アメリカの姿がよく出ている。

DVの一番恐ろしいのは被害者の心の支配がすすむことであり、自分の心の中には誰も入れないのだというソーシャルワーカーの話しが耳に残る。

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2009年4月20日 (月曜日)

対人援助に於ける「待つ」を考える

対人援助に於いて「待つ」ことは、基本であり、中心的課題となる。

待つことを考える場合、すぐに浮かんでくるのは、「ゴトーを待ちながら」だ。(あくまで個人的な興味です)

ゴトーとは、ゴッド(神)だと云われている。

神を待つとは、希望を待つことに繋がる。何に対する希望というのではなく、人生に対する希望というような命題だろう。

そこには、既に待っている人が居る。

その存在が大きい。

「もしもし。誰を待っているのですか」とは聞かない。何かを待っていることは明らかであり、その待つという行為自体がその人の人生であるからだ。

しかし、既に待っている人は、一体いつから待っているのだろうか?

それは、以前からであり、待ち続けるうちに時間を超越してしまっている。

神の約束は、歴史の中にあり、それは人類に対する契約として記されている。

待つことに意味はあるのか?

意味とは何だろう。待つことは行為であり、時間という人生に関る。

待つこと自体が意味を持つ。

他人から見ると暇つぶしのように見える。無意味に見える。何もしていないように見えるかもしれない。

しかし、それでも待つことを続ける。

「私には関らないで」と強い拒否を示していた女性から援助を希望する電話を貰った。

3年間待った結果の電話だった。

何が変わった訳ではない。待っていたらそうなっただけである。

そして、その希望さえも変化するかもしれない。

それでも待っていたからこそ、その変化に立ち会うことだできたことは確かだと感じている。

芝居の中でゴトーは現れない。それでも観客としての自分の中に確かな変化が起こっていることを感じることができる。

その感じは、感じる人にだけ訪れる救いのようなものだと思う。

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