カテゴリー「大学」の14件の記事

2009年11月15日 (日曜日)

「見る」と「書く」との出合い

大学で本を借りる。

できるだけ新刊を借りるようにしている。それは、世の中の関心がどっちに向っているかを知るためであり、知的好奇心から。

「みる」と「書く」との出合いーフィールド観察学入門 2009年 麻生武 新曜社

観察した事柄を伝える「書く」学問らしい。

しかし、観察する事柄は、電車の中であり、大学の学務課でり、通学路である。つまり、普段何気なく見過ごしている風景(目に飛び込んでいる景色)を観察し文章にする。

その大学が奈良女子大学。

あれ、どこかで見たような大学だと思ったら、奈良の高嶋社会福祉士事務所がその近くにあったこと、前の路地を進むと大学につながっていることを思い出した。

それこそ奈良女子大学だった。

学生に課されたテーマは、近鉄奈良駅から大学までの通学路を観察することだった。

本の中にはその観察記録が載っている。

その通りは「ひがしむきどおりきた」という。

東に向いているのか、北に向っているのかさっぱり分からないが、とにかく「ひがしむきどおりきた」には、沢山の商店があり、カトリック教会の横のビルに高嶋氏の事務所がある。

「ひがしむきどおりきた」を何度も往復したこともあり、学生の路上観察記録はとっても楽しく読ませてもらった。

鰹節の専門店があり、大仏プリンを出している店があることを知った。

今月22日23日に奈良、大阪を訪れるので、大仏プリンを食べたくなった。

観察する目は、フィルターがかかっていると著者はいう。

何かに注目し記録するとき、それを選んだ、認知したということになるのだろう。すると、それ以外のものは選ばれなかった、認知されなかったことになる。

だから、子どもが生まれた時には、街には赤ん坊が溢れて見えるし、気分が落ち込んでいる時には、具合の悪い人や顔色の悪い人ばかりに会うような気になる。

目が悪くなると音が気になり、指を切ったりすると、感触が鋭くなる。

好きな人が側にいれば、どんな町でも輝いて見える。

女子大の学生は何でも観察し記録する。

ちなみに、今僕が座っている空間を観察する。

事務スペースである空間は、幅1メートル、長さ2メートルだ。

しかし、この小さな空間は世界につながっている。

目の前には一枚の写真がかかっている。写真には、イタリアの教会見える。

教会に扉を開けると中世の時代に行くこともできる。

つまり、観察する人間の認知や経験、そして頭の中の物語が空間をいくらでも広げてくれる。

| | コメント (0)

2009年9月19日 (土曜日)

GW

GWといってもゴールデン・ウィークではない。

グループワークだ。

デスク横の本棚にあるコノプカの「ソーシャル・グループ・ワーク」は、昭和53年発行の第6版。前田ケイ先生が監訳している、シュワルツの「グループワークの実際」は、1978年の初版。

あまり読んだ形跡はないが、その後養護施設に入って毎月発行していた新聞はGWの実践記録のようなものだった。

YMCAで学んだGWは、大場敏治論だった。その実践は、子どもへの眼差しとして心に残っていると同時に、若く苦しい時代に救いの眼差しとして刻まれている。

その当時の大場さんの年齢を超えてしまった。(たぶん)

生意気な若者にとっての憧れは、実践力のある確かな大人だ。隠された力を持ち、地道にそして、確実に僕らに影響を与えていた。気がつくと、憧れの存在として立っていた。

ぐいぐいひっぱって行くリーダーではない。

その存在感が、その行動が、側にいる者に何かをしなければならないという力を与えていた。

グループの力というものがる。

仲間の中に自分を置き、気持ちを許せる時間を共有できるだけで、身体が軽くなる。

その場に必要なのは、仲間の存在と、相互にそのままの気持ちを感じあえる関係だろう。

だから、土曜日のお昼ごはんは重要な時間となっている。

| | コメント (0)

2009年8月28日 (金曜日)

夏休みの大学

大学に行った。

授業料は夏休みの分も払っている(たぶん)ので、8月も開いている。

しかし、学生はいない。

いないけれど、図書館は開いている。司書(というのか)さんが、ゆっくり仕事をしている。

あるいは、工事扶が芝生で弁当を食べている。

他には、若者が裸でラケットを振っている。

門をくぐると空気が違う。

くぐる前は、頭がはっきりしているのに、椅子に座った瞬間から朦朧としてくる。

今日、持って行って持って帰ってきた本。

「安全・安心の心理学」海保博之・宮本聡介著 新曜社

「プロジェクト・リスク・マネジメント」ポール・S・ロイヤー/峯元展夫 生産性出版

「グランデッド・セオリー・アプローチ 理論を生み出すまで」戈木クレイグヒル滋子 新曜社

「昔話と日本人の心」河合隼雄 岩波書店

「意味への意思」V/H・フランクル 山田邦夫訳 春秋社

| | コメント (0)

2009年8月14日 (金曜日)

若い

大学に通うようになり、若いような気分でいた。

しかし、若い人と決定的に違うことがあることに気がついた。

それは、知っている芸能人の名前ではなく、朝早く目が覚めてしまうということでもなく、トイレが長くなったということでもない、褒められるとすぐに嬉しくなるということでもなく、ビールを飲んだ後についお腹をさすってしまうということでもない。

それでも、トワ・エ・モアを知らないということはショックだった。

だとすると、山室恵美子が所属していたスクールメイツも知らないだろうな。

話を戻して。

若い人は、将来のことで悩んで挫折する。

ウチの少年なんかは、将来のことを考えると食事も喉を通らないほど悩んでいる。

しかし、若くない人たちは、せいぜい3日後の事しか考えない。考えないから躓かない。せいぜい石に躓くくらいが関の山だ。

若くない人は思う。

あんなに悩んでみたいものだと。

それでも、そう思っていたことでさえ、すぐに忘れてしまう。

| | コメント (0)

2009年7月11日 (土曜日)

実習はじまる

実習というものがはじまった。

はじまったというより、お願いし、お伺いしている。

大学のとき、卒業した中学校に実習に行き、その時、松田聖子「青いサンゴ礁」を放送室で歌った。

当時の中学生は、まだ素直だったので、楽しい実習だった。

大学院の実習は、研究の一環という位置づけであり、新しい自分を見つけるため、そして、実践力をつけるなど、様々な目的がある。

L大学の場合、現場で実践をしながら研究職を目指す院生が多く、それぞれ、研究目的に合わせ、また、違うフィールドでの実力を試すような実習を目指している。

それだけに、なんとなく分かっているようなことを実感できる機会となり、意味は大きい。

僕の場合、まずは、東京で、それから岩手、最後に、奈良、おまけに長野と伺う予定だ。

それでは、宜しくお願いします。

| | コメント (2)

2009年6月22日 (月曜日)

感想

「脳の中の幽霊」:V/S・ラマチャンドラン

「まずい面接」ジェフリー・A・コトラー、ジョン・カールソン

「構造主義とは何か」上野千鶴子

を読んでいる。

平行して読む。少しずつ進めるようにする。

感想は後ほど

| | コメント (0)

2009年5月22日 (金曜日)

小さな大学

4月から通い始めた大学は小さな大学だ。

どれくらい小さいかというと、廊下で会う人には必ず挨拶するぐらい小さい。

だから、はじめは戸惑った。

若い女性に「こんにちは」と言われ、あれ、「どこかでお会いしましたか」と思わず聞いてしまおうかと思ったくらいだ。

首をひねているうちに、どこかに行ってしまったので助かった。

また、学食はお昼だけ開いている。そして、定食はすぐに売り切れる。いったい何食作っているのか分からないが、ちょっと出遅れると売り切れで、ラーメンとなる。

図書館の机も小さい。どれくらい小さいかというと、肘を広げるとぶつかるくらい小さい。しかし、その小ささが心地よくなる。

そして、生徒より鳥の方が多い。

| | コメント (0)

2009年4月23日 (木曜日)

ハガル生き返る

木曜日は大学に行く。

天気がいい。

図書館で本を返し、また、借りてきた。

社会学者、聖書を読む/高橋由典/教文館/2009

その時何があったのか?

数千年前に起きたことを様々なこじつけを交えながら、それでいて、逆転する社会学者の視点が楽しい本です。

クリスチャンのささげもの/V・Sアザライア安部志郎訳/日本キリスト教団/1957

昭和32年発行、120円。安部先生がアメリカから帰ってきて教え始めた頃だろうと思い、借りる。

フランクルを学ぶ人のために/山田邦夫/世界思想社/2002

なんとなく借りる

スーパービジョンを考える/たたら幹八郎・滝口俊子偏著/誠信書房/2001

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月22日 (水曜日)

今読んでいる本

「身体値と言語」/奥川幸子/中央法規/2007

先日紀伊国屋(新宿)で購入。

”対人援助技術を鍛える”と副題にある。奥川節が感じられる本です。

ケアの絆/マーさ・A.・ファインマン/岩波書店/2009

相談援助ー自らの問い可能性を感じ取る/山下英三郎/学苑社/2006

リトル・トリー/フォレスト・カーター/めるくまーる/1991

奥川さんの本を読んで、再読中

自立と共生の場としての教会/北村慈郎/新教出版社

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月19日 (日曜日)

中谷さん

通っている大学には、神学部がある。

神学部がある大学はそれほどない。

哲学や神学という、生活費の直結しない学問を学ぶ学生には興味がある。

養護施設にいたとき、夜警という人がいた。

その施設の場合、学生が住み込みで夜警をしていた。昼間は、大学に通い、夜は夜警をする。

当時、東京神学大の学生が夜警だった。

学生といっても、髭をはやしたおじさんだった。

日本各地を放浪し、かなりの年で神学部に入ったという経験を持つ彼の部屋には、学校や施設に不満を持った少年がたむろするようになった。

また、大学や社会に不満をもった神学生もよく遊びに来た。

そして、泊り込み勤務の時、子どもが寝静まってからボクもよく遊びにいった。

部屋は、4畳半ぐらいだったか、それ以上に狭い。その狭い部屋に金魚が1匹、それも太った金魚だった。

彼の金魚は餌をもらっても、それを消費できるだけのスペースがない金魚鉢に浮かんでいた。あまりに太ってしまい、泳ぐことを忘れ、ただ浮かんでいた。そして、最後には、腹を上に向けていた。

金魚と同じように、子どもたちも、狭い施設や学校に飽き飽きしていた。することがないので悪いことをする。

それでも、何かをする子はいいほうだ。

何もすることがなく、金魚のように浮かんで時間をつぶす子どももいた。

そんな子どもがやってきても、彼は、何も言わない。

何も言わなくても、彼の生き方は大きな影響を与えた。

彼がバイクに乗っていると、バイク好きの子どもが集まる。

トランペットを吹いていると、楽器好きの子どもが寄って来る。

ラーメンと食べていると、腹の空いた子どもが食わせろという。

賛美歌を歌っていると、下手だから止めろと、横に寝ている子どもが声を掛ける。

先生でも職員でもないので、親や大人の不満や批判をしてはストレスを発散している。

その時、既に40は越えていたであろうから、立派な大人だ。しかし、子ども達のとって、彼は大人ではなかった。

自分の姿を映す池のような存在だった。

どんなに大きな石を投げ入れても、水が溢れることがなく、全てを飲み込んでくれるような存在だった。

「自立と共生の場としての教会」北村慈朗を読んでいて、急に中谷さんを想いだした。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧