2018年7月 8日 (日曜日)

分かりにくさ

分かりやすいことは楽である。物事に白黒つければ、自分の立ち位置を決めやすい。
オウムが出始めた30年前に、教会でオウムの話をしていた。教会でと言うところが肝である。
話をしている人たちは、宗教家が迫害の歴史を辿ってきたことを知っている人たちである。彼ら、オウム信者は、僕たちと同年代の若者であり、僕らも当時若かった。
マスコミは、今も、悪い集団というレッテルを貼り、彼らを区別、差別した。
しかし、差別されることは、教義にとってマイナスではないことは分かっていた。むしろ集団を強化する働きを果たしたことは歴史が証明している。
事件の教訓はどこにあるのだろう。
分かりやすさを求めることに急ぎ過ぎた結果ではなかったのか。そうした世間の風潮は相変わらず、ハリウッド映画のような演出を好む。
分かりやすさは対立を生みやすい。
人間のことを 僕たちはどれほどの分かっているのか。
動的平衡という考えで言えば、何かが出現することにはそれなりの意味があり、バランスを取る機能を果たしている。日本の分かりにくに社会を誤魔化すように政策を進めれば、また、分かりやすい集団が生まれるだろう。彼らにとって、自らの教義、信仰こそが分かりやすいのであるから。
混沌としたものの中で生命は生まれたのだとしたら、全てを包み込む思想が必要だと思う。
多様な民族を、多様な言葉を、多様な宗教を、考え方を受け入れることこそが、この事件から学んだ教訓だと感じる。

| | コメント (0)

2018年5月18日 (金曜日)

歴史を語る

病気であることで何かが分かるわけではない。
男性や女性であることで、意見が違う訳ではない。
洋服や時計で性格が分かるわけでもない。

その人の向こうにある歴史を語ることで見えてくるものがある。

認知症であったことは事実かもしれないが、そのことで見えてくるのは、その人とどのように関わってきたのかというと、私の歴史である。
病気として認知していたのか?
その病気の本質を理解していたのか。
その病気の苦しさを分かっていたのか。

認知症というと言葉でかたずけたいのは、私自身の歴史だとしたら、私は本当に共に生きてきたのか。

| | コメント (0)

2018年5月 6日 (日曜日)

All About マイマザー

母の事で一番古い記憶は、雨の日に学校に迎えに来てくれた母の傘に入って家に帰る時である。
これは、写真で見たのかもしれないが、そんな写真を誰が撮っていたのだろうと考えると、僕の記憶かもしれない。
僕はつまらない顔をしている。それは、学校で僕がお漏らしをしたからかもしれない。学校は嫌いだった。
母は僕の手を引いて黙っている。
その顔は若いビジネスガールのようだ。

この時の顔は忘れられない。
たぶん、30を少し超えたくらいだったのだろう。
何かに悩んでいる顔をしている。
子育てに不満だったのだろうか?
いや、自分の人生の事を考えているように見える。

その次の記憶は、母親の顔になっている。
いつもの、あの人懐っこい顔だ。

だからこそ、あの時、一人の女性として何を考えていたのかを知りたい。

| | コメント (0)

2018年4月27日 (金曜日)

どんなものにも境界がある。
それは、点の集まりでできているのだろうが、その点はどこにもない。
円の中心や線の交わりに、それはあると言うが見た人はいない。見えないけれど確かにある。
そんなものは山ほどある。
その山も、どこからが山なのか分からない。歩いているといつのまにか山の中にいることがある。だんだん暗くなると怖くなる。知らないうちに点にぶつかるようなものだ。
雨も、その境があるが見ることはない。
しかし、そんな雨の境に出逢った。
沖縄の海の上にいた。小さなボートに乗っていた。
ジリジリ肌を痛めつける陽射しを浴びていたら雨ふが降ってきた。肌は暑いのに冷たい雨だった。
その時、船 の崎にいた船頭に雨が当たっていないことに気づいた。
狭い船の横を通り船首に移動する。その途中、雨の境を通ることになる。
身体の半分が濡れている。それは雨粒というと点の集まりであった。
しばらくすると。雨は何もなかったように去って行った。
境界は、突然やってきて、突然去っていく。
国境も同じようである。越えることができない状態が何十年も続き、突然、歩いて渡る。

| | コメント (0)

2018年4月18日 (水曜日)

川の話

押川さん【仮名】の話についていくのは難しい。
こちらの質問には80%答えない。それでもたまに答えるので期待して聞き返す。
会話が続かないが、押川さんさんの話は続く。誰々が最近やめたけど知ってると聞く。知らないと答えると、最近お風呂に入っていないと返事する。そう、というと、川に行きたい。今頃は綺麗だろうと話す。
まあ、理解しようとすると疲れる。それでいて、ボート聴いていると、私の話を聞いているのかと聞く。
まあ、と返事する。また、昨日あった大変な事を喋り出す。
ところで、川の話はどうなったのかと、蒸し返すと、そんな事言っていないと言う。
そこで、今頃行ったら気持ちいい川を想像する。

| | コメント (0)

2018年4月16日 (月曜日)

施設内で起きる性的な虐待

養護施設内で起きる児童間の性的虐待についてのニュースを読んだ。

施設という環境は閉鎖的であり、内部でどのようなことが起きているのかが見え難い。それは、学校や病院、役所や裁判所も同様であろう。
小さな社会である養護施設では、他の社会で起きることなら当然発生すると思われ、それを特段に問題だと取り上げることにどれほどの意味があるのだろう。
むしろ、養護施設内で、性的事件が起きたと報道することで、加害者と被害者をあぶり出し、守られるべき環境でも虐待があったのかという認知を強調するだけだ。
しかし、考えれば分かることだが、養護施設で生活する子どもたちは、子どもらしく生きる権利を侵害されている被害者である。その彼ら、彼女らがともに暮らす仲間を虐待するとすれば、その問題の本質はどこにあるのか。それは、社会が背負うべきことだと思う。
他者を思いやれない社会で暮らす子どもたちが、他者を大切にすることはできない。自分自身も大切にできない。
また、性的なこ事柄でいえば、寂しさを紛らわすために、暖かさを感じるために、性的な接触を求めようとする子どもたちは多い。それは、大人から、親から一番大切な物を奪われてきた子どもたちの訴えである。

| | コメント (0)

2018年3月12日 (月曜日)

加藤和彦の話をする北山修

繋がらないように思える話が、実はというふうに、繋がり始める事に気付いたのは歳のせいだけではなく、経験が大きく関わっていると知ったのは最近だ。

彼がすることが無意味だとお思っていたのは、私の人生にいう意味を見出せなかったからかもしれない。

しかし、北山は心に無意識があるという。
彼の行動を、演技と捉えた場合、
彼は演出家の命じるまま、お茶を飲み、昼寝をし、サザエさんを見る。
それは、とてもうまい演技である。
誰も真似できない。それどころか、彼以外にそれをできる者はいない。

無意識が、それをさせている。
しかし、無意識をコントロールする、演出家がいる。

それは誰なのか、彼は知らない。
自分ではわからない。

分からないからこそ自然に振る舞える。
その意味を価値づける事を僕はしているのだろうか。
むしろ価値を下げている。

そう、僕は、僕の無意識をコントロールできない。

でも、彼は彼の世界に今朝も、古い靴を履いて出かけていった。

| | コメント (0)

動く

動く事を大切にしている。
動かなくてもできる事を、動くという事は、時間の無駄、お金の無駄のようにいう人もいる。
でも、動かないと分からない事は多い。
動くという事は、場所の移動、空間の共有、出会いの不思議さ、気持ちの変化がある。
人が行動するためには、動機が重要だと感じる。
動機とは、動くためのキッカケである。
だらだらしている気持ちに喝を入れるようなものである。

対人認知において、他人が知り合いになるきっかけは、出会いである。

今まで知らなかった人、出逢うことのなかった人との会話は、種類ではできない。
相手の表情の微妙な変化があってこそ、彼女の声の震えによって感じる、僕の変化が大切になる。
動かされるのは僕である。

この仕事の醍醐味は、どんどん変わっていく私の面白さである。
環境を変えるでもなく、相手を変えるでもなく、僕たちの時代がどんどん変わっている事に気づく事である。
昨日の私ではないのは、あの国の人も同様なのだ。

| | コメント (0)

2017年12月26日 (火曜日)

信じられないということ

クリスマスが近ずいてきた。
と言っても、クリスマスが僕の方にやって来る訳でも、イエスが夕飯に来る訳でもない。
街では、プラカードを持ったおじさんのスピーカーが、あなたは神を信じますかと聞いてくる。おじさんは決して喋りはしないのに、スピーカーは雄弁だ。まるで、まあるい穴の中にイエスが住んでいるかのようだ。
教会に行くと、みんなで歌を歌い、神を賛美している。
僕も一緒に歌をうたう。
しかし、歌が終わると不思議な気分になる。
俺は、イエスを信じているのだろうか。
この場合の信じるには色々な意味が含まれる。
彼の存在を信じているかということと同時に、彼の奇跡の物語を信じているかということである。
これはイエスを信じるかということと、キリストして信じるかということだろう。
まあ、それを包括的に丸めて、神を信じるかと聞かれると、はいとは言えず、固まってしまう。

初めて固まったのは、20歳の時である。
アメリカ人のブラザーから毎週イエス キリストの物語を学んでいた。
信じたいと思っていた僕は、彼の言葉を何度も疑った。信じようとすればするほど、それは本当だろうかと疑うことになる。

その時、大好きな女の子がいた。
彼女は、僕のことが好きだろうか?僕は彼女のことを愛しているのだろうか?
それは、本当にホントウだろうか?
と、毎日悩んでいた。それくらいしかすることがないのが青春だ。

クリスマスイブの夜。
ブラザーは僕を呼び出した。そして言った。
あなたはまだ、神を信じていない。

どうしてブラザーにはわかるのだろうか。僕さえ分かっていない事を。

しかし、その言葉は真実だった。
信じようとすればするほど、疑いの気持ちが大きくなる。
信じることは委ねることでもあり、若い僕は、自分しか頼るものがなく、人に委ねることはできなかった。

信じるとは、 見えないものを、見えると言うようなことである。
初めからある (見える)ものは、信じるとは言わない。

あなたのことを信じますとは、信じられない状況が沢山あっても、それでも、信じるという表明である。
信じるかどうかは、横に置いておき、一緒にいるということである。

エーテルのような霊が空気のように世界に溢れているというのなら、僕がいくら拒否してもそれは、僕の身体を包んでいる。
だから聞かないでほしい。
聞かれる事で疑問が浮かぶ。
真理ならば、黙っていてほしい。
降り注いでいるのなら、雨のように打たれつずければいい。

| | コメント (0)

2017年9月20日 (水曜日)

壊すことから

生物は壊すことに熱心だと福岡教授は言う。
壊すことは、作ることに繋がるが、生物として終焉を迎えようとしている私にとって、作られるものは何だろう。
そんなことを考えながら穂高でカツを食べている。
カツが栄養にはなっても、これが新しい脳の一部にはならないような気がする。それは程に壊され続けているから。
しかし、生きているという事実は、何かを作られているという事実でもあり、山を登れるということであり、まだまだ感動できる心もある。
捨てたものでもない。
でも、たくさん捨てている。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧