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2018年4月

2018年4月27日 (金曜日)

ソバ

女がソバを食べている。
別に男だっていいのだが、たまたま女だった。
多分女だと思う。絶対にと言われると分からないが、横に赤ん坊が座っている。
僕との距離は1メートルぐらい。二人の間には低い壁があり、草が生えている。多分造花。本物なら、虫がわくだろう。
彼女はソバを食べている。麺類だ。その麺を右手で空中に上げる。それが美しい。空中にあげた麺を暫く眺め、うっとりする。
麺は、箸に挟まれ嬉しそうに水を垂らしている。
赤ん坊は何も言わない、何も食べない。
それでいて、口には運ばない。麺は何度も、ツユと空中を行き交い、弄ばれている。
僕がそこに行って、私が代わって食べましょうかと、言いたい。
もしかしたら、筋トレなのだろうか?
最近、様々なトレーニングが流行っている。右手のストレッチとして、ソバの重さを利用して二の腕の外側を伸ばす運動なのか。
そんな事思いながら、コーヒーを飲んでいると楽しい。

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どんなものにも境界がある。
それは、点の集まりでできているのだろうが、その点はどこにもない。
円の中心や線の交わりに、それはあると言うが見た人はいない。見えないけれど確かにある。
そんなものは山ほどある。
その山も、どこからが山なのか分からない。歩いているといつのまにか山の中にいることがある。だんだん暗くなると怖くなる。知らないうちに点にぶつかるようなものだ。
雨も、その境があるが見ることはない。
しかし、そんな雨の境に出逢った。
沖縄の海の上にいた。小さなボートに乗っていた。
ジリジリ肌を痛めつける陽射しを浴びていたら雨ふが降ってきた。肌は暑いのに冷たい雨だった。
その時、船 の崎にいた船頭に雨が当たっていないことに気づいた。
狭い船の横を通り船首に移動する。その途中、雨の境を通ることになる。
身体の半分が濡れている。それは雨粒というと点の集まりであった。
しばらくすると。雨は何もなかったように去って行った。
境界は、突然やってきて、突然去っていく。
国境も同じようである。越えることができない状態が何十年も続き、突然、歩いて渡る。

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2018年4月18日 (水曜日)

川の話

押川さん【仮名】の話についていくのは難しい。
こちらの質問には80%答えない。それでもたまに答えるので期待して聞き返す。
会話が続かないが、押川さんさんの話は続く。誰々が最近やめたけど知ってると聞く。知らないと答えると、最近お風呂に入っていないと返事する。そう、というと、川に行きたい。今頃は綺麗だろうと話す。
まあ、理解しようとすると疲れる。それでいて、ボート聴いていると、私の話を聞いているのかと聞く。
まあ、と返事する。また、昨日あった大変な事を喋り出す。
ところで、川の話はどうなったのかと、蒸し返すと、そんな事言っていないと言う。
そこで、今頃行ったら気持ちいい川を想像する。

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2018年4月16日 (月曜日)

施設内で起きる性的な虐待

養護施設内で起きる児童間の性的虐待についてのニュースを読んだ。

施設という環境は閉鎖的であり、内部でどのようなことが起きているのかが見え難い。それは、学校や病院、役所や裁判所も同様であろう。
小さな社会である養護施設では、他の社会で起きることなら当然発生すると思われ、それを特段に問題だと取り上げることにどれほどの意味があるのだろう。
むしろ、養護施設内で、性的事件が起きたと報道することで、加害者と被害者をあぶり出し、守られるべき環境でも虐待があったのかという認知を強調するだけだ。
しかし、考えれば分かることだが、養護施設で生活する子どもたちは、子どもらしく生きる権利を侵害されている被害者である。その彼ら、彼女らがともに暮らす仲間を虐待するとすれば、その問題の本質はどこにあるのか。それは、社会が背負うべきことだと思う。
他者を思いやれない社会で暮らす子どもたちが、他者を大切にすることはできない。自分自身も大切にできない。
また、性的なこ事柄でいえば、寂しさを紛らわすために、暖かさを感じるために、性的な接触を求めようとする子どもたちは多い。それは、大人から、親から一番大切な物を奪われてきた子どもたちの訴えである。

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