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2017年12月26日 (火曜日)

信じられないということ

クリスマスが近ずいてきた。
と言っても、クリスマスが僕の方にやって来る訳でも、イエスが夕飯に来る訳でもない。
街では、プラカードを持ったおじさんのスピーカーが、あなたは神を信じますかと聞いてくる。おじさんは決して喋りはしないのに、スピーカーは雄弁だ。まるで、まあるい穴の中にイエスが住んでいるかのようだ。
教会に行くと、みんなで歌を歌い、神を賛美している。
僕も一緒に歌をうたう。
しかし、歌が終わると不思議な気分になる。
俺は、イエスを信じているのだろうか。
この場合の信じるには色々な意味が含まれる。
彼の存在を信じているかということと同時に、彼の奇跡の物語を信じているかということである。
これはイエスを信じるかということと、キリストして信じるかということだろう。
まあ、それを包括的に丸めて、神を信じるかと聞かれると、はいとは言えず、固まってしまう。

初めて固まったのは、20歳の時である。
アメリカ人のブラザーから毎週イエス キリストの物語を学んでいた。
信じたいと思っていた僕は、彼の言葉を何度も疑った。信じようとすればするほど、それは本当だろうかと疑うことになる。

その時、大好きな女の子がいた。
彼女は、僕のことが好きだろうか?僕は彼女のことを愛しているのだろうか?
それは、本当にホントウだろうか?
と、毎日悩んでいた。それくらいしかすることがないのが青春だ。

クリスマスイブの夜。
ブラザーは僕を呼び出した。そして言った。
あなたはまだ、神を信じていない。

どうしてブラザーにはわかるのだろうか。僕さえ分かっていない事を。

しかし、その言葉は真実だった。
信じようとすればするほど、疑いの気持ちが大きくなる。
信じることは委ねることでもあり、若い僕は、自分しか頼るものがなく、人に委ねることはできなかった。

信じるとは、 見えないものを、見えると言うようなことである。
初めからある (見える)ものは、信じるとは言わない。

あなたのことを信じますとは、信じられない状況が沢山あっても、それでも、信じるという表明である。
信じるかどうかは、横に置いておき、一緒にいるということである。

エーテルのような霊が空気のように世界に溢れているというのなら、僕がいくら拒否してもそれは、僕の身体を包んでいる。
だから聞かないでほしい。
聞かれる事で疑問が浮かぶ。
真理ならば、黙っていてほしい。
降り注いでいるのなら、雨のように打たれつずければいい。

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