« かすみ | トップページ | 30年たって話すこと »

2015年4月 5日 (日曜日)

信じるということ

今日はイースターである。

キリストは、死に、その後、復活した。

復活したことを弟子に示すために、腹に空いた穴をわざわざ示した。

疑り深い人間を信じさせる行動としては、わざとらしく、白々しい。

こんなに信じろと言われると信じられなくなる。

こんなにはっきりと「信じろと」と言われると、信じたくなくなる。
まるで、信じるなと行動しているように思える。

ABEさんが、戦争をしないけど軍隊をもち、軍備を増強するのは平和のためですと言われると、その言葉は信じられないが、何をしたいのかはよくわかる。

「そんなことはしない」と強く言われると、「そうしたいんだな」と想像させられる。

のこへんは、「ホントウ」と似ている。

ホントウですと強く言われると、ああ「ホントウではない」と思ってします。
では、「本当に、ほうとうに、ホウトウです」と言われたら、どうだろう。

これは、絶対嘘だと思ってしまう。

そんな、白々しい行動をとったのが、復活のイエスだ。

わざわざ、信じらざるを得ないような、傷跡や姿を見せるなんて、ホントに馬鹿らしい行動だ。
まるで、貞子が、テレビから出てきて「おばけ〜」と言うようなものだ。

そんなことがあったかどうかわからないが、それから2千年が過ぎた。

それを見ていない僕は、何を信じるのか。
それは、見えないものを信じる感覚である。
何かを信じたい思いがある。

信じるということは、それが事実であるかどうかを確認するためではない。
希望が叶うことを願う行為である。

戦争が終わることを信じている。
争いが終わった世界を想像し、その世界ではどんなことが起こるのかを、頭のなかで見ることが「信じる」ことだと思っている。

ただ、そこにいることを信じるかと聞かれた場合。
はいと答える。
それは見えるからではない。

見たいからであり、その存在を感じるからである。

|

« かすみ | トップページ | 30年たって話すこと »

ゆれる」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« かすみ | トップページ | 30年たって話すこと »