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2014年7月19日 (土曜日)

曖昧な援助関係

ここで言う曖昧な援助関係とは、関係を結びつける契約は整っているにもかかわらず、援助の目的が達成した後の関係をいう。
契約に基づいた関係は、双方の合意に基づき目的を持つ。例えば、今抱えている課題を整理したいであったり、障害を持つ娘の外出手段を探して欲しいだったり、生活保護の申請を一緒にして欲しいだったりする。
そうした関係は、援助目的が達成されると終結する。
契約に基づいた関係が多くの場合費用を伴うこともあり、もし、追加の希望が生じたら、追加料金が発生するという現実的事情もある。

一方、契約に基づかない関係、例えば親子関係は終結が曖昧である。それだけでなく関係の目的も曖昧である。
この関係は、あらかじめ結びついているという前提から始まる関係だ。
双方の合意が無くても、関係を否定しようとも、親子であることには変わりはない。

遺伝的に親子でない場合で有っても、その関係が長期に及ぶ場合、子どもの利益を考え「親子」であるという判例が出た。

それは、親子の繋がりを血縁だけでなく、社会的に「親子」と認知されるような関係である場合には、その関係を「きらない」ということだろう。

つまり、親子関係のような結びつきは、意図的に「切る」ことはあっても、「切れない」関係だといえる。

では、成年後見人制度における、被後見人と後見人の関係はどうだろう。
申し立て当初には、はっきりした援助目的があり、具体的な課題を解決する、される関係が生まれる。
しかし、その課題も解決し、安定した生活が送られるようになると、援助目的は「見守り」という言葉で表されるように曖昧になる。

曖昧になるのは目的だけではない、関係自体も今までとは違ってくる。その違いは、二人の関係性により大きく変わる。
それは、専門的関係というより、個人的関係に近くなる。それを「曖昧な援助関係」と呼ぶ。

この曖昧さは、関係の曖昧さではない。関係自体は、かなり成熟している場合が多い。関係が成熟し自在にその距離を変え、深さを調節できるからこそ曖昧でいられる。

しかし、関係の成熟に逆らうように援助者の不安は膨らむ。
それは、その関係を構造化できないからである。

ここまでのプロセスは理解できるが、その後の成長を想像できないことからくるストレスだ。曖昧でいられるというのは、もの凄い力が必要になる。


このジレンマは親子関係に近づくからだろうか。

曖昧で結びつきが強い関係は、関係を「切らない」、関係は「切れない」ということが条件であるのだろう。

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