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2014年6月10日 (火曜日)

悪の凡庸さ

平日の午後、ハンナ・アーレントを観る。 ミニシアターは、中高年の男女で溢れている。いつもは、ガラガラなのに。それに、みんなで楽しく観る映画でもないのに。 ハンナは、ユダヤ人の哲学者。 有名な大学の教授という地位を持っている。 ナチスの戦犯アイヒマンの裁判が行われることになり、ハンナは傍聴したいと申し出る。そして、そのレポートを雑誌に発表する。 裁判を傍聴するうちに、普通の人に住み着く悪に出会ったんだろう。アイヒマンの悪は悪魔ほどの深みも味わいもない、悲しいほどに凡庸なものだった。 ユダヤ人として収容所にいたこともあるハンナは、アイヒマンを単に批判するだけでなく、人間アイヒマンの苦悩をまとめて発表する。それは、ユダヤ人指導者の罪を暴くことにもなる。 当然、ユダヤ社会からは大きな批判と脅迫を受ける。 映画の後半、ハンナは教室で反論する。悪はどこにでもあると。勿論ユダヤの中にも。どんな状況にあっても思考することはできたのではないかとハンナは言う。その思考をやめたとき、私たち一人一人がアイヒマンになるのだと。 映画を見ている老人たちは、僕もその一人だけど、日本の現状を考えながら、これを聞いていた。中には前の戦争を体験した人もいただろう。 そのとき黙っていたあなたは、誰かを殺したに等しいと言われているようである。 そんなことを言われても困る。それは、ユダヤの社会が抱える問題であるし、日本の抱える問題でもある。 原爆を投下された日本人は被害者なのか、福島の事故で放射能を撒き散らす加害者なのか。 それに対して、アンナは、コミットしないことの凡庸な市民の悪と断罪している様にも聞こえてくる。 そして、今起きている日本の戦略に対してどうコミットするか。 それは、日々の仕事を通じても、書くことによっても、勿論様々なアクションによってもできる。 誰かが法律を作り命令したからという言い訳では、歴史は許さないだろ。 それは、悪の凡庸さとしてすでに批判されているのだから。

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