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2014年1月 5日 (日曜日)

朝からの手紙

年をとっても、分からないことが多い。

年賀状で頂いた文章が分からないので考えている。
「自分自信の中心に入ることを恐れず、自分の魂の動きに専心することができるとき」
凄い年賀状である。これが書き出しだ。
山下達郎氏の番組を聞きながら考えている。
大滝さんのことを語れない彼の魂の動きが痛々しい。
そう、魂は確かにある。幸せな時には感じないものであるが、心が大きく揺れ動くときには、確かにその存在を感じる。
だから、自分の魂のことなんか考えたくない。ましてや、その動きにも。心臓がそうであるように、動いているときにはその存在を感じないのに。その動きが不規則になると、急に動きが気になる。
最近、心臓が痛い。
まして、自分の中には踏み込みたくない。
それは、汚いものを見たくないという心情である。見たところでろくなものはないことは分かっている。
「生きることは愛されていることであると、知るようになる」と続く。
そう、自分自身を開いて、魂という『自分の中心』を見ないことには、ホントウの「愛」を知ることはない。
そうだろう。
愛されたいと願うばかりの僕は、ホントウの愛を知ることはない。
しかし、それでも愛されていると「彼」は言う。

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