« 気持ち | トップページ | メロディーだけじゃお腹がいっぱいにならない »

2013年4月23日 (火曜日)

音楽が関係を埋めてくれる

在宅で看取ることの大変さを取材した番組をみた。

こうした番組の視線はどうしても介護者に置かれるようである。

そもそも「看取る」という言葉は、介護者の側から介護や看護、さらにターミナルや終末をとらえている。

本人=つまり死んでいく人はどこに行ったのか。そもそも死にゆく人にとって看取りは問題でない。問題は、「死」そのものとそのプロセス、そして、死後の世界である。

これは、成年後見業務でも同様である。ターミナル期を迎えた被後見人(以後本人と呼ぶ)へのアプローチは次第に減り、家族や本人を取り巻く環境に対して多くの時間を割くようになる。

それは、援助が他の対人関係と同じように、動いているものに対して力が向かう傾向があるからだ。ベッドに横になり、さらに、言葉が出ない状態となり、食事がとれないようになったときに医療の限界があるように、援助関係にも大きな変化が出てくる。

関係とは、双方向の投げかけが必要であり、一方向からの関わりが長く続くためには、何らかの意味が必要になる。

家族であれば、傍にいることに意味が生まれる。想い出を探し出す作業もできるだろう。ベッドの横で小説を読むということもできるかもしれない。

しかし、反応がない本人との対人関係を業務=仕事として持ち続けることは難しく、訪問時間は少なくなり、確認作業で終わってしまうこともある。

それに反して、家族へのアプローチ(接近)が増す。

死にゆく人へのもう一つのアプローチを提案している人がいる。

それは、本人の内面的な「ながれ」や小さな「うごき」を感じて、その動きにシンクロさせようとする作業である。

ミンデルは、死にゆく人と対話できるという。

対人関係としての援助関係がどうしても動きの多い方に向いてしまい、病院や施設という空間では援助者と本人との関係を構築するのは難しい。

まして、本人が感じているごく小さな動きや流れを感じることはなおされである。

そして、ふたりの関係の意味を見つけることがなければそこに留まる事さえ苦痛になる。

では、どのようなことができるだろうか。

僕は今、ハープを弾いている。

ハープは、病室に持ち込める大きさのものを用意する。曲を弾くのではなく、本人の気持ちの流れを感じるような音を出すことに集中する。

これが、なかなかいい。ハープの共鳴版は演奏者の方に向いている。つまり、癒されるのは、聴く人よりも演奏者の方なのだ。

|

« 気持ち | トップページ | メロディーだけじゃお腹がいっぱいにならない »

成年後見」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 気持ち | トップページ | メロディーだけじゃお腹がいっぱいにならない »