誰に話をしているか
北山修最後の授業を見る。
面白かったかと聞かれれば。そんなに面白くない。
面白いということは、見るものの要求や、見るものを意識した演出や出し物であるかどうかが問われる。
確かに、演出をしている。
それは、本当の北山ではないのかもしれないし、あんなものであるかもしれない。
40年前も、理屈ぽっかたし、愛嬌がなかったような気もする。
テレビは、誰に向かって話をしているのだろうか。それは大衆と言われる、存在しない人たちにである。
そんな者はいないのにも関わらず、一方で「うける」話であるかどうかが問われる。
目の前にいる人が存在している唯一の対象であるにも関われず、話は大衆に向けて流される。
授業と言われるものも、変なものであり、30人や100人に向かって話をすることは普通ではない。普通ではないことを何の違和感も感じずに話をする方も、それを聞く方も変である。
そんな変な状況を楽しんでいるという意味では、授業は「芝居」である。「うそ」という匂いを感じながら騙されて、それを楽しんでいる。そういう意味では本当のことを言わないというルールに則って物語が出来上がる。
一方、面接には「本当」が含まれる。もちろん「芝居」もするが、つまらない現実の方が多い。だから、テレビでは問題になる「沈黙」が含まれる。
しらっとした空気が流れ、そっぽを向いたり、下を向いたりして絵にならない。
今日も3人のクライエントと面接をした。
そのうち二人は、何もしゃべらない。こんな面接もある。
しゃべらないし、また、しゃべれない。だから、空気を読み、その「場」の雰囲気を感じる。
その空気感を他人に伝えることは難しい。それに、面白くない。なぜなら、私とあなたの間に起こっていることだからだ。
それをパーソナルコミュニケーションといい。その関係には、双方の情動とコミュニケーションが活発にうごめいている。それはそれは面白いのに、それを感じられるのは、当事者だけである。
それを「現場」という。
現場で活躍する東海林さんも、本当に面白さを知っているのは彼女だけであり、テレビを見ている人は、現場を見ているのではなく、東海林さんの顔を見ているのだ。
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