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2010年5月 5日 (水曜日)

天吾

居間の外側の春の光が差し込む板張りのうえで本を読んでいる。

(この板は、3,9メートルあり、16年前に材木屋で購入した。12本を抱えて、運び、並べて釘をうち、ニスを塗った。多少、色は変わったが、いまだにその存在を長さによって示している。)

1Q84

天吾は海辺の病院を訪れ、昏睡状態の父親に語りかけ、本を読み聞かせる。

父親と息子の関係である。

息子が父親との繋がりを自覚するためには、どちらかが存在をなくす必要がある。

それは、距離的にとても遠くに行くことかもしれない。

息子にとって、父親は、それほど近い存在でない。母親の胎内から生まれた子どもは、生まれてすぐに母親に出会い、母親により生きる決断をする。

息子を取り上げたのが父親であっても、それは生物的な繋がりを感じるだけで、母親との関係でいえば競争相手である。

しかし、そのどうでもいい存在が失われるときは別である。それは、父親であると同時に、生物的には同類としての男であり、その生物の歴史が自らの存在に与えた大きな影響の意味を知りたくなる。

たとえ、存在がない場合であっても、不存在の意味を強く感じる。

これが、援助関係にある他人ではどうだろう?

ターミナルにある人に対する仕事をする人として看護師がいる。看護師は、仕事として患者に関わるだけなのだろうか。

確かに、関係性の中で役割が果たす意味は大きく、その役割を通じて他者を受け入れる。

役割がない場合の交流はどうなうだろうか。

そこに横たわる人との相互関係は、二人の間だけで起こるのではなく、そこに立ち尽くす人とその人との間にも起こる。

私と私自身との交流がある。

天吾は、まさに、父親に語りかけるように自分自身に向かって語りかけ、物語を作ろうとしているように見える。

それは、いまも続いている。

父親の存在は、亡くなってから大きくそして強くなってくる。

それは、自分が父親の年に近くなり、その存在を失うことに意味を考えるようになっている証のように。

なくなったしまった存在は、いくら大きな声で呼びかけてもなにの答えも返って来ない。返って来ないからこそ、何度も呼びかけるのだろう。

お~い、そこにいるかい。

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