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2010年3月28日 (日曜日)

みんなの罪は一人では背負えない

新百合ケ丘アルテリオ小劇場で薘菜竜田作・演出の「罪」をみた。

障害を持つ息子と妹、そして夫婦の物語。どこにでもいるような家族が、温泉宿に泊まり、その夜の話。風呂から上がってきた4人は、狭い部屋で顔を突き合わせ、何もすることのない時間を楽しもうと準備をする。しかし、夫は、何もすることがない時間をもてあましてしまう。

そこに、突然の雨。

そして、過去の記憶がよみがえり、4人の罪の背負いあう関係が展開する。

障害を持った息子が悪いのか、彼を叱り雨の中に追い出した母親が悪いのか、嘘をついた妹が悪いのか、何もしない父親が悪いのか、いや、誰も悪者がいないことがこの家族の苦悩である。

妹はいう。「私たち家族は不幸せなの」

幸せを演じ続けてきたが、不幸を演じる仕方がわからない。

その時、雨音は消え、現実が訪れる。何も変わっていない。ただの家族であり、ありふれた不幸の物語が続く。

自分の家族の話をするとき、人は、いかに不幸かをたのしそうに話す。それは、口で言うほど不幸ではないと思っているからだろう。もし、自分の家族がいかに幸せかを話すなら、それが具体的であればあるほど、聞く者は思う。「なんてかわいそうな家族かしら」と。そして、「分かったから、そんな悲しい話をしないで」と、どこかに立ち去るだろう。

この物語は、家族というチームの話だ。チームには、歴史がある。苦労を共にしてきた歴史は、家族のメンバーが共有しているからこそ、他人には分からない。

家族のルールややり方は、他の家族は知らない。ウチの家のやり方が普通なのか、そうでないのか、だれも知らない。

だから、不幸な家に生まれたと感じる子どもも、その不幸がどれほどかは分からない。父親は云う、「世の中にはもっともっと不幸な家族がある」と。

そうか、ウチは幸せな家族なのか。

何も見なければいい、みんなで、顔を寄せ合い、ジグソーパズルをやっていれば幸せだ。

さて、僕の家族は幸せなのだろうか?

答えは、

よその家族が不幸であるのと同じくらい不幸であり、また、同じくらい幸せだ。

ただ、ジグソーパズルをしなくていいくらいの幸せはある。

それは、普段から不幸な顔をして、愚痴を言っているから救われる。

平田満、井上加奈子はいい。熱海殺人事件から30年が過ぎたが、全然変わっていない。

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