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2010年1月11日 (月曜日)

まぜてもらう

新年会に交ぜてもらった。

僕は色々な集団の中での位置取りいつも苦労する。

ヴァン・ジョンズとイアン・スチューアートによる「人格適応論」では、反社会型(魅力的操作者)が生き延びるための適応タイプだったと思われる私は、集団の中での上手く自分を表現できない。

昨日のワイズマンの映画での登場人物たちも、暴力という力に立ち向かうために様々なサバイバルスキルを駆使していた。

DVもそうだが、生き延びるための「やりかた」は、次第に意識のそこに入ってしまう傾向がある。暴力を受けるのは「私のやり方が悪いから」と考えたり、「私の行動が変われば状況は改善するはず」という思い込みが生まれる。

これは、幼児決断により作られた「神話」であろう。

自分が変わることで人生は変わることはあるかもしれないが、相手が変わるとは思えない。

それに、暴力を受けることが「ゲーム」になっているとしたら、「どんなストロークでも何もないないよりまし」というTAの法則にしたがって、マイナスのストロークを得ることが人生の目的となる。

魅力的操作者の原動力は“見捨てられ”だという。

飲み会では見捨てられないようにはしゃぐ。しかし、はしゃぎ方が上手くないため、すぐに見捨てられる。

すると、すねる。

こんな人っているでしょ。

5つの分類については(続き)に書きます。あなたもどれかに当てはまっているかもしれないし、生き延びるために幾つかを複合的に取り込んでいるかも知れません。

熱狂的過剰反応者(演技型)

 熱狂的過剰反応者あるいは演技型を発達させる人の両親は、子どもにかわいらしいこと、あるいは優しいことを望み、他者を楽しませ、喜ばせることの重要性を強調する傾向がある。彼が子どもに期待すること(ドライバー)は、〈他人を喜ばせよ〉というものである。

 子どもが受け取る典型的な禁止令は、〈成長するな〉〈考えるな〉〈重要であるな〉である。それに反応して子どもはおびえ、混乱し、悲しく感じる。自分はOKではない、そして両親はOKであると確信する。その人の決断はしばしば「あなたが愛してくれるように、あなたを喜ばせ幸せにすることは何でもします」である。そして十分に喜ばせていない場合には、不安を感じる。

責任感ある仕事中毒者(脅迫観念型)

責任感ある仕事中毒型あるいは脅迫観念型を発達させる人はしばしば、両親の要求が極端に厳しい人たちである。彼らは達成を強調し、やることに価値を置く傾向がある。両親が伝えるドライバー・メッセージは〈完全であれ〉である。

子どもが受け取る典型的な禁止令は、〈子どもであるな〉〈(楽しいそして性的な感情を)感じるな〉〈近づくな〉〈楽しむな〉である。子どもはそれに反応して不安や罪悪感や憂うつを感じる。結論は「私はOKではない、あなたはOKである」である。もし自分が有能な子どもでなければ、両親は自分に関心を持たないだろうと確信する。決断はしばしば「有能であるために最善を尽くします。そうすればあなたは私を愛するでしょう」である。十分有能であるかと自分の能力について不安を感じるか、「悪い」考えをもつことに罪悪感を感じる。

才気ある懐疑者(パラノイド型)

才気ある懐疑者あるいはパラノイド型を発達させる人は、しばしば両親の関わりに一貫性がない。子どもの同じ振る舞いに対して、時には愛情があって支えとなり、時には怒っていて批判的で拒絶的である。両親の子育ては、自分たちの気分しだいで大きく動揺する。子どもに伝える期待(ドライバー・メッセージ)は、〈完全であれ〉と〈強くあれ〉である。

子どもが典型的に受け取る禁止令は、〈子どもであるな〉〈近づくな、または信頼するな〉〈感じるな〉〈属するな〉〈楽しむな〉である。両親が一貫しない結果。子どもはしばしば彼らから油断につけこまれて批判されたと感じて、安全であるために用心深くして、自分と回りのすべての人と物をコントロールしようと決断する。「私はOKである、あなたはOKでない」と決断する。他の人の能力に怒りを感じて攻撃する。もし全体をコントロールし続けられれば、悪いことが起きるのを防げると確信する。決断は「安全であるためにあなたを警戒しなくてはならない。コントロールしていれば、私はOKだ」というものである。

同時に、「もしコントロールしていられないならば何が起こるだろう」という、根源的な「子ども」のおびえはなお続いている。このように見かけは「一歩リードしている」姿勢は、実際は〈私はOKでない、あなたはOKである〉立場への防衛である。

創造的夢想家(スキゾイド型)

創造的夢想家あるいはスキゾイド型の人の両親は、自分自身の問題に心を奪われ当惑を感じていて、子どもの欲求に応えることがまったくできない人たちであることが多い。両親が子どもに伝える期待(ドライバー・メッセージ)は〈強くあれ〉(すなわち自分の感情と欲求を認めない)である。

子どもが受ける典型的な禁止令は、〈感じるな〉〈属するな〉〈楽しむな〉〈成長するな〉〈考えるな〉〈やり遂げるな〉〈正気であるな〉である。それに応じて、子どもは当惑し不安になり、自分の感情を麻痺させるようになる。「私はOKでない、(なぜなら私は自分の欲求に応えてもらっていないから)、そしてあなたはOKではない(あなたは私の求めるものを与えてくれないから)」と結論する。欲求に応えてもらえない苦痛を避けるために、感覚を麻痺させる。早期決断はしばしば「私の感じるものを知る満足をあなたに与えてあげない。自分で自分の世話をする。あなたは必要ない」である。

おどけた反抗者(受動的攻撃型)

おどけた反抗者あるいは受動的攻撃型の人の両親は、子どもが何か望む時はいつも子どもと戦う人たちであることが多い。両親は競争的な、白黒はっきりつける、一か八かの枠組みで子どもを操作する。彼らはコントロールしすぎで、子どもが自分で行動する余地を与えるより、両親の言うとおり行動することを強制する。両親が伝える期待(ドライバー・メッセージ)は〈努力せよ〉である。実際これは「努力せよ、しかし遂行するな、なぜならもしやってしまったら、もはやもっと努力する必要はないだろう」ということを意味する。

子どもが典型的に受け取る禁止令は、〈成長するな〉〈やり遂げるな〉〈感じるな〉〈楽しむな〉〈近づくな〉である。子どもは欲求不満を感じ自律性の感覚を持とうとして、両親の望みに抵抗するようになる。自分をOKでない、そして両親もOKでないと見なす。しばしば決断は「生きるために戦わなくてはならない。もし望むものを持てないなら、少なくともあなたが望むものを得るのを妨げてやる」である。

魅力的操作者(反社会型)

魅力的操作者あるいは反社会型の人は、両親が競争的で自分の欲求を最優先させる傾向があるので、子どもはときどき無視されたり忘れられたりすることがある。子どもは両親に見捨てられるという経験をする。〈見捨てられ〉は文字通りであるかもしれないし、感情的なことかもしれない。両親はときには世間にどんなに良い両親であるかを見せようとして子どもを育てるか、子どもの欲求に応じてというより、むしろ自分たち自身の関心に基づいて子育てをする。両親が伝える期待(ドライバー・メッセージ)は、〈強くあれ〉と〈われわれを喜ばせよ〉である。

子どもが受け取る典型的な禁止令は、〈近づくな〉〈(おびえと悲しみを)感じるな〉〈やり遂げるな〉〈(未来の問題解決について)は考えるな(しかし、現在人を出し抜いたり人をバカにする方法は考えよ)〉である。子どもにとって両親は、生まれたときから側にいない可能性もあるし、子どもの欲求を無視し、親の欲求に従って子どもにを刺激するようなやり方で育てる可能性もある。このようなやり方で両親が子育てする場合、子どもは受動的になり、親が欲求を満たしてくれるように、世間がそうしてくれることを期待するようになる。必然的に両親はある時点で疲れて嫌になるか、物理的にそばにいない可能性が生じる。このとき子どもは見捨てられたと感じる。恐ろしいたくらみを企てられたと怒り、裏切られたと感じる。またたく間に、愛されていたのが上辺だけであって、いまや置き去りにされ、独力で生き延びなければ死んでしまうしかなくなったと、子どもは感じる。そのような両親に対して、生き延びる仕返しをすることを子どもは決断する。魅力的操作者の人は「私はOKである、あなたはOKでない」と結論する。決断はしばしば「そっちが気にかけないのなら、こっちだって気にかけない。くそ、こんなところにいるもんか」である。二度と誰をも決して信頼せず、あのようにまた傷つけられないように、本当にあるより、ふりをし、ありのままの自分でいるより何かのふりをし、復讐することを決断する。両親から愚かに見えるようにされたと感じるので、他の人をバカにすることで復讐しようとする。親しさの代わりに演技と興奮を用い、他者を出し抜こうとするのである。

ヴァン・ジョンズ&イアン・スチューアート 白井幸子・繁田千恵訳 (2007)「交流分析による人格適応論」 誠信書房 P79-P79

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