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2009年9月 7日 (月曜日)

普通

北山修を読んでいる。

「普通が分からない」と述べている。

普通とは、「どこにでも見かける状態」であるが、何処にもないようだ。

確かに「ふつう」とは、少年が良く使う言葉だ。

美味しい?

ふつう。

楽しかった?

ふつう。

つまり、そこに存在するのに、大した意味もなくただただあるようなもの。だから、北山は「普通は自然と関係がある」と言っている。

自然もよく分からない言葉だ。昔の日本には「自然」という言葉がなかったという話は有名だ。あまりに身近に存在したため、言葉にする必要もなかったのか。

今日、「ポー川のひかり」という映画を観た。

キリストさんが川かわ下ってきたと村人は自然に信じた。その存在を疑うこともなく、村に同化する。

普通に暮す人びとにとって、変化さえも、吸収する力があるのだろう。

そして、毎日、会社に行ったり、学校に行ったり、ご飯を作ったり、掃除をしたり、そんなことも普通にできる人は、大した力を持っている。

しかし、一度疑問に思ってしまうと身動きができなくなってしまう。

普通を疑うことは、自分を疑うことに繋がる。だから、自分が分からなくなる。

自然の中に暮らすには、自然を吸収することからはじまる。そのうち自分自身も自然の一部となり、普通に息ができるようになるだろう。

どうして、普通を考えているのか?

普通に暮せない苦しさを知っているから。

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