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2009年3月

2009年3月22日 (日曜日)

いやーどうも

いつも怒られている人からお願いの電話をもらった。

その上、感謝の言葉まで添えられ、最後には、健康の心配までされてしまった。

その変化には時間が必要だったのか、それとも他の要因が必要だった分からない。

それまでに、やってきたことは、殆ど無意味に見えるようなことだった。こんなことをしても自己満足以外の何物でもないだろうと思いながらも、そのうちに何か変化が起こることを祈りながら行動してきた。

この場合の意味とは何だろう。

自分勝手の解釈を与えることで、情況の変化を望んでいる。

しかし、現実には状況は変わらず、事態に変化は起こらない。

ところが、水面下では、着実に何かが動いている。

それが見えないということで、何も起こっていないと考える私たちは、意味を見失う。

そう、コミットしたら変わった訳ではない。

変わるだけの必要性、必然性があったのだろう。それは、誰にも分からない。当の本人でさえ。

また、変化はいいことだけではなく、悪いことも含んでいるからややこしい。

しかし、絶えず変化を続けながら生き続けてゆくという、生き方のようなものを学んだことは確かだと感じる。

今は、過去の私ではない。そして、これからの今をどう作るのかを決める自由を獲得しできたことは大きい。

将来が明るいなどとは云えないが、何があっても変化続けていけるだけの動きが生まれたように感じると嬉しくなった。

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どうしようもないということに落ち着いてしまう会話で終わる

はっきりしないといえば、小浜さん(先ほどの続きで仮名)は、はっきりと決めない。

判らないという。

何がわからないか、という問題ではなく、そのままにしておく方向で決めている。

だから判っているともいえる。

判りたくないのは、考えるとこんがらかるかららしい。

こんがらかると、判らなくなる。

この辺の按配は難しい。

しかし、わからなくても、決めなくても、地球は周り、ご飯は1日に3回出てくるから困らない。

しかし、その辺が困る。

地球が回っていることのではないですよ。

ご飯のことです。

住むところがあり、着るものがあり、食べるものがあると、それでいいような気分になる。

それ以上何に悩めばいいのだろう。

目的があるから行動ができるようなもので、どこにも行くあてがない旅は、旅ともいえない。

小浜さんの悩みは、究極の悩みなのだろうか。

悩みたくても、悩めないという悩みを抱えることは辛い。

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2009年3月21日 (土曜日)

YESまん

ジム・キャリーは好きで、殆どの映画を見ている。

YES MANを見た。

彼は、アウンサン・スーチーを応援し、ミャンマーの民主化に力を注いでいるという。

YESということがどれ程難しいかを知っているから、トルーマンになったり、イエスマンになったりするのだろう。

YESと云うだけでは人生は変わらない、しかし、変わったと思う瞬間から人生は変わって見える。その辺が面白かった。

ふざけているようで、まじめな役者なんだろうと思う。

そういえば、YESという日本語はない。

「はい」は、YESではない。

私たちは、はっきりした生き方をしない民族なんだろう。

はっきりしないことがよくないと云われてきたが、むしろ、戦わないで生き延びる方法として曖昧さが見直されている。

オバマさんが我々はできると言うから、そうかなと思うが。

小浜さんなら、まあ、そんなもんでしょ。ぼちぼちいきましょ。とお茶を濁すだろう。

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2009年3月20日 (金曜日)

墓参りに出かけた。

墓には興味がなかった。

現在も、関心が薄い。人の墓の心配をするが自分の墓のことは殆ど考えてこなかった。

墓をきれいにしているうち、「俺もここに入るのかね?」とつぶやいたら、「順番ならね」と返事が帰ってきた。

どこに入れて欲しいとか、どうして欲しいとかいう希望はない。

それでも、自分がここに入るのかと想像するときれいに掃除をしようという気持ちになった。

気持ちになったけれど、墓には興味がないことだけは変わらない。

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2009年3月18日 (水曜日)

無駄な買い物

次年度から、介護保険の認定調査が変わるという記事を読んでいた。

その中で「無駄な買い物」という表現が気になった。

買い物は、無駄な買い物があり、必要な買い物があると政府は考えるらしい。

この場合、政府=男だろう。

言葉の後ろに「俺は、無駄遣いしないからね」という感じが出ている。

それでいて、景気刺激のために、「お金と使おう」と宣伝し、

それでもって、「二酸化炭素削減、エコのために、消費を抑えよう」という。

全く矛盾している。

この矛盾が凝縮しているのが買い物だ。

買い物とは、必要なものを買うことではなく、物を買うという行為だ。

それは、その時「必要なもの」である。しばらく時間が経ち、「買わなくてもよかったかも」と思い、また、「同じものを買ってしまった」と感じても。

いや「食料は必要なものだ」と仰る奥さんがいるかも知れない。

食べ物も、いずれは、身体から出てゆく運命がある。

生きてゆくためには、何かを入れて、その形を変えて出す作業を繰り返すこと。

それを単純にして、必要な栄養だけを入れ、出す量を少なくする生活は寂しい。それだけでなく生きる意欲をなくしてしまう。

つまり、無駄なことに意味がある。

無駄こそ人生。(そこまで云っていいのかわからないが)

無駄なことをするために毎日生きているといえるかもしれない。

だから、無駄な買い物をしよう。

少年は、無駄な買い物をして成長している。

ボクは、無駄な買い物ばかりして後悔している。

妻は、無駄な買い物ができると喜んでいる。

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2009年3月16日 (月曜日)

社会福祉士事務所開業塾

大学の福祉学部を卒業し、一定期間インターンとして学び、独立・開業する社会福祉士が増えることを願い「開業塾」を開催している。

先日、独立している仲間と話をする中、

独立している福祉士が地域で柔らかな協力関係を築き、出資金を出し合い組合を作る。

組合員(会員)の出資金により、事務員を雇い、独立したいインターンを支援する仕組みができないだろかと考えている。

インターン期間中に、成年後見を受任してゆき、3年後辺りで、受任件数が5~10件ほどになり、後見報酬を受け取れるようになった時、独立する。

独立したら、組合に入り出資金を払い正会員となる。

この仕組みでいいところは、

①相互に、情報を共有し、社会福祉士としての質を上げることができること。②ケースを相互に共有し、緊急事態に対応できる仕組みを作れること。③後見人等が高齢となった時に備え、受任しているケースを引き継ぐ(家裁の審判を受けて)ことができる。④地域性の高いサービスを開発できる。⑤地域行政との連携を強め、協力関係(仕事)を受任できる。

①定期的学集会・事例検討会の開催、講座の開催など。

②情報共有することにより、会員に不慮の事態、緊急事態、出張などの場合に、対応できる体制を持てる。または、事務代行を行う。

③後見人も定年がある。それに備えた体制を持つ。後見人の交代を含めて家裁と相談するなど。

④地域性を考慮した新しい仕事を開発する。

⑤個人ではなく責任あるグループとしての業務を受任する。

などが考えられる。

個人的には、事務員を置くこと、経理をお願いできることのメリットが大きいと感じている。また、旅行などの時に、緊急的事務を依頼できるので、双方にとって安心感が広がる。

事務所を借り、市民相談を当番製で行うことも可能。

難しいのは、それを纏めることだろう。

何しろ、まとまらずに一人で自由に活動している人ばかりだからね。

ところで、

開業塾ですが、阿佐ヶ谷事務所を閉じたため、希望者のところで開業することにしております。

ご希望の方は、仲間を集め、または、個人でお申し込みください。

どこでも行きます。(交通費実費請求)

お申し込みはメールでお願いします。

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2009年3月15日 (日曜日)

卒業

少年の卒業式に出た。

「絶対来ないでよ」と云われたので、覆面を被っていこうとした所、妻に止められたので、普通の格好で出かけた。

学校は歩いて3分のところにある。

式は、淡々と進む。

校長先生の講話は、必要な前置きと、教訓と、必要な終わりの話で、手短に終わった。

卒業証書授与式も、整列した子どもたちに順番に「はい、はい」と渡され、手短に終わった。

蛍の光もなく、仰げば尊しもなく、泣く準備をしていたのに、手短過ぎてあっけなく卒業生は退場し、ぼくも、見つからないように退場した。

養護施設に勤めている時に何度も卒業式に参列した。

卒業する子どもが多い年には、大きなカメラを抱え、来賓席の後ろからバシバシ写真を撮り怒られた。

大学を卒業して何十年も過ぎたてしまった。

思い出すと、卒業式に出席していない。

子どもが進学する姿を見ていたら、僕も学校に行きたくなったので、4月から学校に行くことにした。

子どもと一緒に進学するなんて、面白い。

それに、やっと、卒業式にも出られるかもしれない。

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画数

妻が、「赤ちゃんの名付け辞典」のような本の手伝いをし、それが出来上がってきた。

テーブルに置いてあったので見ると、よくもここまであるなぁと感心するほど、沢山の変わった名前が載っている。

そういえば、先日病院で待っていたら、「とまとさん」「レタスくん」と呼ばれ、母親に連れられたトマトちゃんとレタス君が薬を貰っていた。

きっと、八百屋の子どもだろう。

頁をめくっていると、名前にいい画数、悪い画数というページがあった。

自分の画数を数え、調べると最悪のコメントが書いてある。「努力してもよい結果は訪れません」とか「孤独と苦悩の人生が待っています」とか「人間関係が上手くいかず、ひとり寂しく亡くなります」とか、悪い画数ゆえ、最悪のコメントが並ぶ。

では、子ども、妻、親戚と画数を調べるが、皆悪い画数である。

「一生努力しても報われません」

「意欲的に努力しても無駄です」

「能力以上の目標を立てますが実力が伴いません」

「病弱、短命の暗示があります」

などなど、

ボクの家系は呪われているようで、吐き気がしました。

「こんな本は燃やしてしまえ」と、小さく叫び、本棚にしまいました。

小さな声で言いますが、名づけ本は買わず、自分がいいという名前をつけましょう。

それにしても、ボクのコメントは当たっているようで怖いくらいです。

明日から、名前の最後に「、」をつけて画数を増やそうと思っています。

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2009年3月13日 (金曜日)

きょうだい

3月は毎年暇である。

暇を有意義に過ごさない。

というより、ゆっくり休むことにしている。

しているというより、体調が落ちているから、結果として寝てばかりいる。

それにしてもよく眠れる。

花粉症と不整脈で、元気に動きたい気持ちがなく、静かにしている。

それでも仕事は少しあり、丁度いい。

今日は、卒業を終えた少年と、仕事が一段落した妻と、ボクのオカンに会いに行った。

彼女(つまり母)はトリという(名前)。

トリ=鳥である。

12番目の子として生まれた。玄関で祖母が、よっこらしょと産んだと云われている。

名前をつけるのも面倒なので、庭にいた鶏と目が合い、トリになったというのが、我が家の言い伝えだ。

それが、今日はじめて、下に男の子がいたことを知った。その子は死産だったそうだ。それにしても13人も子どもを産むとは凄い。

兄弟は、男女半分ずつ。

男子は全て戦死した。

残ったおしゃべりの女の子(おばあさん)も2人になってしまった。

つまらないからと、田舎から東京の姉の家に居候をしている。

毎日、子どもの頃の話し(昭和初期の)をしては笑っているという。そういうばあさんもいいかもしれない。

それに、いくらは話をしても、文句を言う人は皆、あの世にいるから気が楽だ。

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2009年3月12日 (木曜日)

意味するもの

悼む人を読み終わった。

静人は誤解される。

「そんなことをして何にもならない」と言われる。

また、

「人の死を冒涜することだ」と、叱責される。

静人の行為に意味は何だろう。

それは、誤解ではない。

正解がある場合に、誤解は生まれる。

静人の行為には、正解はない。

静人は、意味を持って生きているのではなく、「選ばれた者」として描かれている。

あたかも、フランクルが云っている「人生があなたを選び動かしている」と言葉を思い起こさせる場面だ。

昨日は、母親を憎み、「決して許さない」と心に決めた人に会いに行った。

会うことはできなかったが、その心情を感じることはできた。

それは、勝手な解釈である。

その解釈には意味はない。

そう感じられただけである。

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2009年3月 9日 (月曜日)

続けること

悼む人を読んでいる。

今日、第三者評価のフィードバックに行った。

フィードバックとは、事後報告のこと。

そこで、話をしていたら、「訪問の時も同じことを云っていましたね」と言われた。

そう、同じことをいつも云っている。

しかし、そのことに気づかない。

初めての場所なのに、「あれ、前に来たことある」と感じることがあるように。

「・・・・・・・・」と話をしていて、「あれ、同じことを云っている」と感じることがある。

そう、何度も同じことを云っているうちに自分の言葉になる。

静人(悼む人)の行動も繰り返しばかりだ。

繰り返しているうちに、形ができてくる。

形ができてくると、変でなくなり、その形が当然、いや、立派に見えたりする。

お茶も、踊りも、能も歌舞伎も、形ができてくると文化になる。

静人の動作もだんだん型が決まってきた。ただ、場所が問題である。

形は、環境に左右される。それを見るべき場所がある。どこでもいいわけではない。

お茶を点てるのは茶室と決まっている。茶の心を感じながら心を落ち着ける。

しかし、静人の行動は、場所を選ばない。人の心を乱す。

まるで、乱すことを目的にしているように見えてしまう。

静人は。

そんなことをして何になるのか?

よく、そう聞かれる。

何にもならないからやっているのだと思う。

意味がないことだから、長く続くこともある。

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理解できる

悼む人を読んでいる。

悼む人(静人)の行動は他人からは理解されない。

わかるとは、一体どういうことだろう。

そんなことを考えながら、昨日は成年後見活用講座チューターとして、講座に参加していた。

被後見人の「判断能力」は、どれ程だと思いますか?

と聞かれ、悩む参加者たち。

「理解できる(力)」、「判断できる(能力)」は、ものさしがあるわけではない。

静人の行動が理解されないのは、それを見た人が、忘れようとしている事柄を思い起こさせるためかも知れない。

だから、「わからない」ではなく、「分かりたくない」という気持ちが大きく左右する。

「分かりたい」と感じる人からは、「共感」が起こる。

この感情は、微妙だ。

分からないは、突然分かるに変わる。

それは、見たくないものであるから、「分からない」という言葉で切り捨てようとする。せっかく切り捨てたものを繋ぎとめようとする静人の行動を理解するには、彼は「病気である」という、自分とは違う存在として違う場所に置く事でしか逃げられない。

しかし、そうはいっても、目に入ってきてしまた彼の行動は、心を大きく揺さぶる。

そこに何かあるという匂いを嗅ぎ取った人は、跡を追ってゆく。

「包帯クラブ」でもテーマは同じように感じる。天童さんは、切り離されたものを結ぼうとしているのか。

認知症と呼ばれる人は、自分を認知症とは呼ばない。

なんだか分からなくなったと感じる。

分からないのは自分である。

自分と世界の繋がりが分からなくなってきたが、何を困っているのかも分からない。

何しろ、世界は今も私の周りにあるのだから。

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2009年3月 3日 (火曜日)

雑談

今日、醤油ビンを持ち、国道を渡る人を見た。

日常生活で、当たり前でないことを、あまりに当然ように振舞われると、その可笑しさが少し遅れてやってくる。

その人、おじさんは、年の頃なら50くらいだろうか。

格好は、今までコタツに入って餅を食べていた風。

突然、近所の山田さんから電話が入り、「今日は寒いね、そういえば雪になるかも」なんて無駄口を利いていたところ、「お宅に醤油あるかい?ちょと貸してくれないか?」と言われた。

それを聴いた義雄さん。(そんな名前がぴったりの人だった)

じゃあと、すぐそばだからと、サンダルを突っかけて、山田さん家に向う。

そこがたまたま国道で、車が結構、走っていたということだろう。

そう考えないと、山田さん家に当たり前に顔で向う義雄さんの正々堂々とした様子を説明できない。

しかも、左手にはしっかり醤油ビン(ガラスでできたあのヤツ)を握っていた。

しかし、よくできたもので、国道を走る車は、義男さんが醤油ビンを持っていることにすぐに気づき、当然のようにスピードを緩め、山田家へ急ぐ義雄さんを応援するようにクラクションを鳴らした。

義雄さんは、無事に国道を渡りきり、何もなかったかのように路地に消えてしまった。

困ったのは、それを見ていた運転手。(つまり僕たち)

なんとなく、前の車の運転手と目配せして、手を目の前に持ってゆき、

「しょうゆうこと」ですねと、冗談のように、親指と人差し指を近づけて笑いあった。

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