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2009年1月18日 (日曜日)

うちの妻って

福満しげゆきの妻はただ者ではないと思っていたら、やはり、本になった。

「うちの妻ってどうでしょう」を買った。

その横(かなり遠い横だったが)にある、「マグダラのマリア」(中央新書)も一緒に買った。

福満さんの妻とマクダラのマリアを重ねた訳ではない。

マクダラのマリアは、聖女にして娼婦という、二面性を持つ女性であると同時に、キリストの死と復活の場面に登場する人物として知られている。

そんなの知らないと仰る方が多いかも知れないが、ヨーロッパを中心とするキリスト社会では知っている人は知っている。

著者の岡田さんは、美術史が専門であるので、その捉え方がユニークだ。

書き出しに登場する、カラバッジョの「改悛のマグダラ」の2枚の絵は、同じ作家が同じ対象を書いたものとは思えない。

1596年に書かれた絵は、いたいけな聖女であり、10年後に書かれた絵は、人間を挑発する娼婦の姿が描かれている。

ぼくは、後に書かれた絵がすっかり気に入ってしまった。

その後も時代に翻弄されるようにマグダラのマリアは、様々な表情で登場する。

福音書の作者が感じたように、その後の作家(絵描きたち)にとって、マクダラのマリアが魅力的であり、象徴的なイメージを感じていたことだけは確かだ。

本書に登場するマグダラは、皆、天を仰いでいる。しかし、何かを見つめている訳でもなさそうだ。何かを待っている訳でもなく。ただ、天を仰いでいる。

このただ・・・という存在が凄い。

それで居て、何かがあるというそぶりを見せる。勿体つけている。

聖と悪を共に持つ存在としてマグダラは、人間の象徴だったのだろうか?

一方、福満さんちの妻も凄い。

どう見ても、食べ過ぎ。

いつもダラダラの洋服を着て、感情のままに生きている。

その容姿は、グラビアアイドルにも負けず、その手にあるものはのど飴か煎餅。

笑っているのか怒っているのか分からない顔をしているので怖い。

話に結論が無い。何かありそうでいて、何もない。

しかし、何かがあるんじゃないかと期待だけはさせるその存在感が大きい。

そんな期待があって「うちの妻って・・・」を買ってしまった。

最後まで期待をもって読んだが、最後まで、何もなかった。

それでいて、そばにおいてチラチラ見たくなる人(妻)です。

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