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2008年12月23日 (火曜日)

懺悔

久しぶりに岩波ホールに行き、「懺悔」(グルジア人のテギンズ・アブラゼ監督の作品)を見た。

独裁者により悲劇の物語である。

物語は、独裁者の死により始まる。

彼が死に、その墓を掘り返し復讐する女。女は捕まり、独裁者により家族が味わった苦痛を語り出す。

懺悔で思い出すのが、カソリックの教会だ。

二十歳の頃、1年間、フランシスコ会の教会に通ったことがある。

そこは、明るく清らかな雰囲気があり、教会を見に来る信者もいるほど。しかし、その教会のなかにある懺悔室だけは違う。

そこには罪が詰まっている。

神聖な教会の中に、罪の償いの場所を作る意味はどのにあるのだろうと感じた。

すべてが許されているのなら、贖罪の必要もなく、そのままでいることが許されるべきだと、若いブラザーに聞いたことがあった。

絶対的な神の存在を前提にするときには、罪についても、明らかにすることが求められるのだろう。

日本の神のように融通は利かないのか。あいまいを許さないために、懺悔をするのであろうか。

あいまいを内在して暮らす日本が暮らしやすいのかどうかは別として、第三の道があるように思える。

映画の中ではそうはいかない。生か死かを求める。

死人を眠らせないとするほど、女の憎しみは深い。

女は、3度墓を掘り返したが、これから、300回でも同じことをするという。

独裁者は懺悔をした。

しかい、その罪は許されることがなかったのだろう。

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