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2008年12月

2008年12月30日 (火曜日)

相談料

半年ほど前の話。

それほど余裕のない援助者に、相談料を値下げする旨相談をした。

すんなり受け入れてもらっていた。

それが、今日、電話があり、相談料を値上げしてもらいたいという。

初め、

「相談料のことなんですが」と云うので、

てっきり、もっと安くしてほしいと云われると思い、

「はい、半額にしましょう」と申し出た。

ところが、

「そうじゃなくて、前の額に戻したい」という。

仕事が上手くいっていると嬉しそうに話をしてくれた。

まったくありがたいことである。

こういうお客さんが沢山いることを嬉しく思います。

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5年目

本日で開業5年目を迎えた。

12月30日に届けを出したので、1年目は2日だけ。

その後3年を順調に過ごし、晴れて5年目となった。

事業継続する上で一番大切なことは、止まらないということ。仕事が続いていることが一番大切だと思っている。

事業が続いているということは、仕事に切れがないということである。

切れてしまうとショートする。

今年は、3月に法人を閉じ、4月に個人開業した。

5月に車が壊れ、新車を購入。

阿佐ヶ谷の事務所の引越しも行った。

法人の決算は3月に〆ているので、個人事務所の決算は今月。

車を購入した影響で、-数百万ほどになってしまった。しかも、原価償却を計算すると、経費にできるのは1割強である。

それでも、経費にできるだけありがたい。

社会福祉士事務所は、年数が経過するほど安定する。(僕の場合)

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2008年12月29日 (月曜日)

わしを生まれさせてくれて、ありがとうございました

ヤスは親父に会うことになる。

ヤスは今まで、自分はアキラの親だと思ってきた。

しっかりした親であることで自分のバランスを取ってきた。

「親じぇけん」と気張って生きてきた。

それが、ヤスの親父が現れた。

突然現れる。

小説でなくとも、突然現れるものだ。

僕自身、80年、90年という歳月を越えた兄弟の再会を仲人したことがある。

「私を騙そうとしてもダメです」と言われた。

俺おれ詐欺と思われた。

ヤスは、親父に言う。

「生まれさせてくれてありがとう」と

生まれたのは子どもの力であり、親の力であり、そうした、双方の関わりによって、自分の生があることを表現している。

ヤスは、父親であると同時に、子どもであったことを思い出した。

それに気づいたのが50を越えてからである。

いくつになっても気づくことがあるんだろう?

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2008年12月27日 (土曜日)

親が子どもを甘やかさんかったら、誰が甘やかすんな、あほ

「涙が止まらない」なんていう帯がある本は好かない。

重松清の「とんび」を読んでいる。

不器用な男に男の子が生まれた。

とんびが鷹を産んだように、いい子に育った。

男の子の父親である僕にとって、父親と息子の会話に胸が痛くなる。

子どもが可愛いからこそ、余計なことをいい、それで嫌われる。嫌われても、子どもの痛いところに入ろうとする。そこには誰も入れないと知っているから、戦いは厳しいものとなる。

物語の中に、子どもを産み、その子を置いて来た女性の話しが出てくる。

養護施設にいたときに、親に捨てられた子どもが親を探すという場面に出あった。

子どもは、親が自分を捨てたとは信じない。自分に問題があったから、捨てられたと信じる。それは、自分の問題が解決すれば、再び元に戻れるかもしれないという希望でもある。

だから、成長し、一人前になると親を探そうとする。

一方で、親は、子どもを捨てたことを負い目に思っている。

その罪を一生背負っていこうとする。

春夫さん(仮名)は、40年前に子どもを捨てた。

実際は捨てたのではなく、一緒に生活が送れない状態になってしまった。

しかし、それから、40年が過ぎてしまった。

子どもに会いたくない親はいないだろう。でも、会えない事情がある。

何度、連絡を取ろうとしたかは、住所を書いた紙が財布に入っていることからも分かる。

子どもは親に甘えようとする。

施設から何度も家出を繰り返す秋夫君(仮名)という男の子がいた。

その度に、何度も家まで引き取りに行った。

家に行き、ノックをすると父親の前でシュンとした秋夫君が立っていた。父親は「申し訳ない」という顔で、秋夫君の背中を押した。

秋夫君の家は、母親が家出し、そのために施設に預けられた。

それからも、秋夫君は家出を繰り返した。

何度目かのお迎えで、父親が手をついて謝った。

父親は家の奥に向かい「おい」と叫んだ。

奥から母親が出てきた。

話を「とんび」に戻す。

父親のヤスは、自分の親父の顔を思いだせない。

だから、父親として、どう振舞っていいのか分からない。

分からないけれど、子どもを愛する気持ちだけはストレートに伝わってくる。その言葉が痛いほど伝わり、泣けてしょうがない。

こんなに「涙が止まらない」本はない。

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お答えします

高3です。
いま、社会福祉士になるか看護師になるか迷っています。

社会福祉士と看護師の大きな違いは何でしょうか?

また社会福祉士は何をしているときが一番多いですか?

という質問をもらいました。

1、社会福祉士と看護師の違いは?

何だろうね?

看護師は白い洋服を着ているけれど、社会福祉士は黒い洋服をきている。

看護師は、新聞に募集が載っているけれど、社会福祉士は載ってない。

看護師は、どんな仕事をしているか分かりやすいけれど、社会福祉士は何をしているのかよく分からない。

2、という訳で、社会福祉士は何をしているか?

今日の僕は何をしてたかというと。

まず、病院に行って、クライアント(お客さん)と面接をしました。

ただ、話を聴いているだけのようで、その話から、いま何が起こっているかを考えていました。

ただ、話を聞き続けて2年が経ちました。

2年話を聞いていて、今日初めて少し先に進むことができたような気がした。

それから、特別養護老人ホームに行きました。

ホームで暮すクライアントと面接をしました。

先日電話を貰ったので、最近の様子を職員から聞きました。ソファーに一緒に座って話をしました。

天気の話や、正月はどんなものが美味しいかとか、今日の洋服は似合っているかとか。僕の話を黙って聞いてくれました。

というように、話を聴いているか、話していることが多いようです。

最後に、僕が高校3年生の時に、社会福祉士になろうとは思っていませんでした。

社会福祉士には、職業としてのソーシャルワーカーと生き方としてのソーシャルワーカーがいると思います。

あなたは、どちらを選びますか?

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2008年12月23日 (火曜日)

次年度計画

年末に向って以前のペースになってきた。

つまり、時間がたっぷりとあり、仕事が無い生活のこと。

世の中不景気だといっている。

そんなこと関係ないと思っていたがそうでもない。

行政の仕事を引き受けることがある。

東京都の税収が減る。市や区の税収が減る。そうなると今まで行ってきたサービスが突然無くなることもある。

「来年は、何とかできるけど、再来年はどうかな?」なんて云うことを聞く事も多くなった。

独立社会福祉士事務所は不況に強いだろうか?

年度末であり、今年の収支を計算する時期にある。

次年度は、

今年上手く言っていた仕事がなくなると予想する。

そして、来年新しい仕事が来ると期待する。

ということで、今年並みの収支の計画を立てることにしました。

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講評

今日は朝から、8月に行った演習のレポートを読み込み、講評を書いていた。

レポートは22枚。

予想外に時間がかかり、今終わった。

3時23分。

途中、スパゲティーを茹で、ミートソースをかけて食べた。

3回読み直して、内容を理解するレポートもあり、コメントについても工夫を加えてみた。

自分でレポートを書く方が楽だと感じる。

レポートで重要なことは、読み手の立場に立つことだと思ってしまう。

まとまりがあるとか、難しいことが書かれているとか、意見がしっかりしていることも大切だが、お題に対して、出題者が何を求めているかを考えてくれている文章は読みやすい。

そう考えると、ブログの文章も同じだと思う。

しかし、ブログの場合、読者はどこにいるのだろう?

僕の場合の読者は僕自身。

それでも、何が言いたいのか分からない場合も多い。

だから、後で読み返さないようにしている。

自分が嫌いにならないようにね。

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懺悔

久しぶりに岩波ホールに行き、「懺悔」(グルジア人のテギンズ・アブラゼ監督の作品)を見た。

独裁者により悲劇の物語である。

物語は、独裁者の死により始まる。

彼が死に、その墓を掘り返し復讐する女。女は捕まり、独裁者により家族が味わった苦痛を語り出す。

懺悔で思い出すのが、カソリックの教会だ。

二十歳の頃、1年間、フランシスコ会の教会に通ったことがある。

そこは、明るく清らかな雰囲気があり、教会を見に来る信者もいるほど。しかし、その教会のなかにある懺悔室だけは違う。

そこには罪が詰まっている。

神聖な教会の中に、罪の償いの場所を作る意味はどのにあるのだろうと感じた。

すべてが許されているのなら、贖罪の必要もなく、そのままでいることが許されるべきだと、若いブラザーに聞いたことがあった。

絶対的な神の存在を前提にするときには、罪についても、明らかにすることが求められるのだろう。

日本の神のように融通は利かないのか。あいまいを許さないために、懺悔をするのであろうか。

あいまいを内在して暮らす日本が暮らしやすいのかどうかは別として、第三の道があるように思える。

映画の中ではそうはいかない。生か死かを求める。

死人を眠らせないとするほど、女の憎しみは深い。

女は、3度墓を掘り返したが、これから、300回でも同じことをするという。

独裁者は懺悔をした。

しかい、その罪は許されることがなかったのだろう。

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ねえ聞いて

子どもが母親に「ねえ聞いて」と話をするのは、自分の物語を語りたいからであり、それは、おじさんやおばさんになり、おばあさんやおじいさんになっても続くと河合さんはいう。(「神話と日本人の心」岩波書店)

自分はただのモノではなく、何かにつながる存在として認められ、価値を見出すことで安心する。

石や木は、ものであるが、そこに思い出が詰まるとき、石や木は、ただのものから、意味のあるものになる。

物語は、自分がどこから来てどこに行くのかを説明するために必要であり、それを聞かれない子どもは、どこに行ったらいいのか分からず迷子になる。

それは、大人も同じようであり、家に帰っても話を聞いてくれない大人のオジサンは金を払って「ママ」に話を聞いてもらい、家に居ても誰も話をする人がいない大人のオバサンは、高いお金を払って、美容院やエステに行き物語を話す。

みんなさみしいとも云えるし、どこかにつながりたいと願っている。

それは、子ども時代に、十分に自分の物語を聞いてもらっていないから。

それに、もう十分と感じることがないほど、物語の奥は深い。

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2008年12月21日 (日曜日)

後見人が遺言書を作成できるか

「後見人が遺言書を作成できるか」というワードで入ってきた人がいたので、個人的な見解を考えてみました。

結論は「できない」ということになりました。

この文章は十分ではなく、たぶん「後見人が被後見人の遺言書を作成することができるか?」だろうと想像します。

こうした問いを考える上で重要な問題は、なぜそれが必要かといういううものです。

後見業務は、学術的なものではなく、実際的なものだと感じています。

すると、できるかどうかを考えるのではなく、どうしてそのような課題に悩むのかという方に重点を置くべきだと思います。

そう考えると、そんな問題に悩むことははいという結論に達します。

つまり、被後見人は殆どの場合、そのような悩みを抱かないからです。

もし、遺言書を後見人に作成して欲しいが「そんなことはできるのだろうか?」と悩む人があるとしたら、相当な判断能力を持つ人であり、後見相当ではないという審判を求めることになるでしょう。

また、別のケースで、(後見でなく補助)遺言書を作った方がいいなあと、補助人が感じたとしても、本人(被補助人)は、なかなかそうは考えないものです。

それまで生きてきて、考えなかった問題を、考えるようになるには相当の心の変化やショックが必要です。

だからといって、ショックを与えるとことはないと思います。

これまで生きてきたように、これからも生きていくことを考えるだけでも大変なのにね。

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なみすけ

土曜日に杉並区役所に行き、なみすけに会った。

なみすけは、ニッコリと笑っていた。

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2008年12月19日 (金曜日)

どちらに目がいくか?

今年7つの保育園を訪問した。

乳幼児と接していると面白いことに出会う。

とくにその視線が新鮮だ。

大人の顔をじっと見つめる。まったく恐れがない。

今日も、僕の顔をじっと見つめる女の子の出会った。

さて、髪の毛と、ひげでは、髪の毛に関心がある様子。

髭は、ゴマが生えていると教えると、「ゴマ、ゴマ」と連呼していた。

大人の年が気になる。

「いくつ?」とよく聞かれる。

だいたい、5つと答えるようにしている。

すると「うそ」という。

だから、「7つ」と答えると、納得する。

5つ以上は、大人と思っているのだろうか。

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2008年12月14日 (日曜日)

サンタクロース

ウチにはサンタクロースは来なかった。

サンタクロースはテレビで見たことはあるが、ウチには来なかった。

今日、椎名麟三の「ユーモアについて」を読みながらそう思った。

昭和27年にも、サンタは街に溢れていた。

その頃の町には、交通違反で巡査に引っ張られていくサンタがいたそうだ。

ウチは、街から離れていたから、サンタが来なかったのだろう。

それでも、長靴に入ったお菓子を貰った。

椎名は云う。

サンタクロースのあの顔は、無道徳で哀れだと。人間の弱さを持ち、それでいて憎めないものを持っていると。

サンタの一番の特徴は、あの袋だ。袋を持たないサンタは、ただの酔っ払いだ。

しかし、その哀れな酔っ払いも、あの袋を持ったとたん、空を飛んでもおかしくない不思議な雰囲気を醸し出す。

しかし、彼は、何もしない。そして、袋から何も出さない。

袋も持っているだけだ。

そう、袋から何かを出しているサンタを子どもたちは見ることはない。

プレゼントはそこにあるだけだ。

それも見つけられるのは子どもの力だと思う。

サンタはただ酔っ払って、袋を持っていればいい。

あとは、子どもの想像力がプレゼントを作り出す。

ウチに、サンタが来なかったのは、僕に力がなかったからだ。

そう、ウチにもサンタクロースはたしかにいた。

どんなプレゼントが欲しいか?

来てくれるだけでいい。

もう、ずいぶん待っている。

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元気です

マモル君へ

久しぶりに自転車に乗り、50キロ走りました。

お尻が痛くなりました。

それでも、何処かが痛くなるというのは、嬉しいことです。

痛いくらいが丁度いいです。

もう一台の自転車はMTBです。

TBSではありません。

タイヤが太いです。

太いくらいが丁度いいです。

やせ過ぎはよくありません。

でも、細いタイヤにすることもできます。

細いタイヤで印旛沼を走りましょう。

印旛沼ぐらいが丁度いいです。

琵琶湖は大きすぎます。

それでは、また。

お元気で。

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2008年12月13日 (土曜日)

山を越える

やっと忙しさの山を越える。

越えてしまうと、大したことはなかったなんて思えるが、それでも、程ほどにしないといけない、今回はブッキングミスだったと反省している。

しかし、不思議なもので、予定が少なくなると不安になる。

何しろ年末から正月にかけて2週間の空白がある。

会社員時代なら、嬉しくてしょうがないが、会社経営者となると、そうは行かない。

巨人の星みたいに冬山に篭ってみたい。

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2008年12月 8日 (月曜日)

のこり4人

本日最後のソーシャルワーカー講座だった。

阿佐ヶ谷にいるのも残り1ヶ月。

部屋に残っているのは4人だけ。他の人は引っ越していった。

さて、来月は新年会を開催します。

阿佐ヶ谷お別れ新年会

1月26日(月曜日)

午後6時45分阿佐ヶ谷駅改札口集合

持ってくるもの:プレゼント

プレゼント交換をします。予算は1000円以内。忘れないように。忘れた人は、みんなの飲み代を払って貰います。

初めての方もお待ちしております。

尚、時間に来られない人は、携帯に連絡ください。

090-9326-4663です。

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2008年12月 7日 (日曜日)

ツリー

クリスマスツリーを飾る。

子どもが小さい時は一緒に飾ったのに、今では一人で楽しんでいる。

15年飾っているが、毎年できばえが違う。

2メートルのツリーの周りを43回まわった。

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2008年12月 6日 (土曜日)

指が勝手に動きだします

朝から第三者評価結果レポートを作成している。

いま、計算したら30000字程、キーボードをたたいている、いや、ローマ字入力だから60000字になるか。もう、頭が痛い。

そして、ブログを書き込むなんて殆どキーボード中毒状態です。

でも、夕方に終了したので、これからスポーツクラブに行き汗をかいてきます。

これも、かなりの中毒状態か。

それにしても、親指シフトが懐かしい。

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2008年12月 5日 (金曜日)

木の声を聴く

木の声を聴く

神奈川県身体拘束廃止推進モデル施設養成研修で1日話をした。

朝早く、横浜に向い、銀杏並木の見える喫茶店で朝食をとり、今日は、「木の声を聴く」話をしようと考えていた。

はじまるとすっかり忘れていた。

来年、呼ばれた時のためにとっておきます。

ただ、来年まで覚えていられないでしょう。

講師の依頼はブログにありました。時代が変わってきています。

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2008年12月 2日 (火曜日)

某ナス

世間では賞与の季節です。

個人事務所には賞与はありませんので、例年この時期になると、読者の皆様に献金をお願いしております。

よろしくお願いいたします。

送金先

福まねへの振込
★三井住友銀行 新百合ヶ丘支店
普通 6708341
名義:さいとう社会福祉士事務所
代表 齋藤弘昭

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2008年12月 1日 (月曜日)

身体拘束

法律では、予め犯罪とは何かということを定めている。

それを、構成要件該当性と云うらしい。

つまり、その行為が刑法の条文に該当するかどうかということ。

次に、違法性を検討する。

その行為が、故意であったか、過失であったかを検討する。

構成要件に該当する行為(刑法上の犯罪行為)であっても、実質的に処罰の必要のある行為でなければ犯罪は成立しない。

例えば、刑法35条には、「法令又は正当な業務による行為は、罰しない」とある。

医師による手術がこれに当たる。また、法令に規定がなくても、社会生活上の正当な業務であると認められた行為も処罰されない。

社会常識は時代と共に変わるので、正当という概念も変わることがあると思われるが。

そこで、身体拘束は、刑法の概念では、「逮捕・監禁罪」にあたる行為だと考えられる。

しかし、刑法35条の、その行為が「正当である」とされる場合にのみ、例外的に犯罪にならないといえる。

刑法220条でいう、「逮捕・監禁罪」とは、「不法に人を逮捕し、又は監禁した者は3月以上5年以下の懲に処する」にあたる。

「逮捕・監禁罪」とは、「人の行動の自由ないし身体的移動の自由」を阻害する罪です。

逮捕とは、人の身体に対して、直接的に支配し、その行動の自由を拘束することです。

監禁とは、人が一定の場所から脱出することを不可能、又は著しく困難にし、その行動の自由を拘束することです。

これらは、その方法には制限がない。つまり、結果として制限される場合は、部分的でも全面的でも構成要件になるということです。

身体拘束が正当行為と認められる場合は、「施設は、該当する入所者又は他の入所者の生命又は身体を保持するため緊急やむえない場合を除き、身体拘束その他入所者の行動を制限する行為を行ってはならない」と定めている。

身体拘束ができるのではなく、止む得ない場合以外には「行ってはいけない」という部分が重要です。

違法か、合法かは、のこ正当性が重要になる。しかし、施設の大部分が拘束廃止に取り組み、その成果が出てくる時代になると、身体拘束をすること自体の違法性が高まる。

だから、身体拘束をして利用者に不利益をもたらした場合と、身体拘束をしなったかために不利益を起した場合には、前者のほうがより重い責任を負うことになる。

だから、身体拘束の同意書を取り、期間を決め、モニタリング記録を取り、定期的に見直しをしていたとしても、上記の要件を満たしていない場合には違法となると考えられる。

それに、同意書についても、家族には同意権はないと考えられる。

判断能力が落ちている(ない)人の場合には、成年後見人がその判断をすることになるが、果たして、成年後見人に、身体拘束に同意する権利があるかどうかは難しい判断となる。

つまり、本人の意志を無視して、身体拘束を行うことは、「逮捕・監禁罪」になるというのもうなづける。

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