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2008年9月26日 (金曜日)

杓子を持つ人々

夜中の井の頭線の車内では、誰もが杓子を持つように携帯を握って離さない。

全員で宇宙と更新をすれば、井の頭線が空を飛ぶと信じているようだ。

信じるといえば、「洗礼を受けたのに全く救われない」と訴えられた。その人は、救われたいと願い、なんでもしようとしたのだろう。

人間は神により救われるのだろうか。

井の頭線の乗客は救われたいと願っているのか。

キリスト教の面白いところは、神により人間は許されているのにも関わらず、その人間が「救われない」と思っているところだ。

悪人も、貧乏人も、どうしようもない人も、すべての人が一方的に許されている。人間が気づくかどうかはお構いなく、もう強引にだ。

この辺の強引さはピューリタンのみられる潔癖性に表れているのかも知れない。

それは空気のように当り前のことである。

力のベクトルは上から下へ。ただそれだけ。

矢を投げても地上に落ちるだけ。

救われたいと願っても、すでに救われているのだから、もう、それ以上は救われない。つまり、救われないという事実しか残らない。

携帯電話で神様と話をしようとしてもつながらないのは、そんな訳だからだろう。

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コメント

神様への交信は一方通行を言うのですね。音信不通と考えているのですね。
もし、すでに手紙が届いているとしたら。電話が掛かってきているとしたらどうでしょう。
フランクルは、そう考えて行動することが人生だと話しています。
あなたの人生の目的はすでにあなたに送られてきている。そう信じることで、人生は始まると。
それに、いま行っていることが、それだったりすることがあったりする。
その辺が楽しいですね。

投稿: 桃色 | 2008年9月28日 (日曜日) 11:41

携帯電話を持たない私は神さまと交信する時はこっそりと心の中でやってます。だけど、いつだって一方通行の音信不通。だから自分勝手な思い込みで、私は許されているんだろう、ありのままの私でいいんだろう、と楽天的に考えています。

投稿: kiiro | 2008年9月27日 (土曜日) 07:36

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