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2008年3月23日 (日曜日)

ケロロは考えた

クリスマスがプレゼント交換の日でないように、イースターは卵を食べる日ではない。

それは、あの人の「死」に関係した日だ。

明るい日差しの中でおいしいものを食べるというより、真っ暗な洞窟の中で絶望と希望を見つけるような日だと思う。

クリスマスは、あの人が生れた日だが、イースターは「死」と「復活」の日だ。

人が死ぬことはイメージすることができるが、死んだ人が復活するとなると困ってしまう。

あの人の墓を女が訪れると墓石が動いていた。中を覗くと死体が無く、死体を包んだ布が残されていた。

どうして、女は墓を訪れたのだろう。

弟子の誰もが忘れていたというのに。

遺体が腐るのを防ぐために防腐剤を塗りに行ったのであろうか?

彼の弟子の誰もが「復活」するとは信じていなかった。だから、驚き戸惑った。

なぜ弟子は信じなかったのか。

それは、あの人の死体を布に包み、担ぎ上げて新しい洞窟に運び入れたからだ。暫くするとこの遺体は腐り、消えてしまうことを知っていた。

弟子たちにとって、まだあの人は「死んで」いなかった。

復活とは、「死」を認めたときに起こる。だから、あの人が「復活」したとき、初めて「死」を実感することができた。

その時から、生きていたときよりも生き生きとその存在を体験しはじめたのだろう。

さて、

人間が「復活」することを信じられるだろうか?いい大人が。

それが、大人の方が、「死」に近い分、復活を信じたいと感じる。

若者は、自分が「死」ぬとは、実感として信じられないから、「復活」を信じる必要も無い。

椎名麟三なら「ほんとうにホントウに信じています。絶対に」と、嘘くさく云うだろう。

信じるとは何か。

日本人は「信じる」ということを真剣に考えてこなかったと思う。

人が死んでも「たましい」がうろうろしていると考えただろうし、生きている以上にその存在が残っていることを知っていた。

信じるとは。

信じられないものの存在を認めるために、「信じる」という言葉が必要になる。初めから「そんなこともあるね」と思っている社会では「信じる」という言葉も必要がない。

有り得ない存在が生れたとき、それを認めるか否定するか。認めるとき「信じる」必要が生れる。だから、「宇宙人を信じる」とか、「神を信じる」とか、「江原さんを信じる」とか、皆、一見信じられそうもない存在にであったときに使う言葉だと思う。

だから、「貴方を信じます」といわれたときは、「本当は信じられないけれど、今のところ信用します」と云っているようなものだろう。

さて、復活だが、僕には「信じられそうにない」。

しかし、死んだ人の存在が生きているとき以上に強く「ある」ことは日常的に「信じられる」。

僕の場合、父親が10年前になくなったが、生きている時のは感じられなかった「存在」を感じることがある。

「これを親父ならどうするだろうか」と考え。

街を歩いていると似た人に会う。跡を追っていきたくなる。

先日、妻が亡くなった父親そっくりな人が別の女性と一緒に買い物をしているところを見たと言っていた。

復活して、別の女と逢引しているとは考えたくないから、「復活」して欲しくはない。

僕の親父の場合。

復活したんじゃなくて、「今も生きている」と感じる。

つまり、死んではいないということ。

いや、死んでいるんだけれど、本当には死んでない。又は、本当は死んでいるんだけど、どこかで生きている。

そのどこかが、僕の一部だというだけで。

それは誰にも見えないからといって、本当じゃないとは言えない。

だから、あの人が「復活」したことも、弟子達にとっては、本当であり、死んだことも「ホントウ」なんだろう。

そうして、2千年以上、どこかで生き続けているらしい。

今日は一日「死」を考えた。

ケロロ軍曹のタオルを頭に載せてね。

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