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2007年2月21日 (水曜日)

恩を知る

援助を拒否する人たちのことを考えていたら、北山修著「幻滅論」(みすず書房)が目に飛び込んできた。
開いた頁に「人の世話になりたがらない患者達」の話が載っていた。
すこし長くなりそうなので、興味のある方は続きをご覧ください。

第一話「人の世話になるくらいなら死んでやる」
30代の洋子さんは、不眠を訴えて通院している。彼女は、OLとして働き、何不自由ない生活を送っているようにみえた。
彼女は、自分のことを考えたいと精神分析をはじめ2年が経過した。最近、やっと自分のことを語るようになり、「周りに心配をかけず精一杯元気そうに働くことが自分の誇り」だという。そうしないと、「絶望、孤独、不信感」に陥ってしまう。だから、どんなに悲しいことがあっても、自分の弱味を人には見せないようにしている。そうした生き方を貫いてきた。
しかし、その一方で、彼女は自分の体を針で刺したり、ナイフで傷つける癖があり、体中が傷だらけになっていた。そうした自虐傾向の反面、他人の面倒見がいい。人の面倒は見るが、自分の面倒は決して見せない、そして、「他人の世話になるくらいなら死んでやる」が口癖だ。
こうした自分の自傷傾向を治療して欲しいとは決して言わず、いつも「眠れない」と言うばかりで、治療者にも決して「世話になりたくない」と思っている。
あるとき彼女は、借金取りの夢を見た。借りたものは百倍にして返さないといけない。だから身を粉にして働く必要があるという信念を持っている。そして、これ以上誰にも世話になれないので死んだ方がましだと語った。

 この話を読んで、援助を拒否する一つのパターンがここにあるように感じる。
ケース1。(85歳A子さんの場合)
はじめは、足が痛いという訴えで家庭訪問をすると、家の中はゴミだらけで足の踏み場もない。食事も満足に取れないような環境にいるのに、そのことには全く触れず、足が痛いから往診してくれる医者を紹介して欲しいという要望が出るばかり。
「自分のことは自分でする」という信念によって生きてきた彼女は、出来なくなっているとは全く自覚していない。
彼女は父親から、「人の世話になるような人間になるな」といわれ続け、姉妹の面倒を一人で見てきた。母親は、彼女が小さいときから病弱で、長女として母親代わりに妹達の面倒を見てきた。彼女の唯一の楽しみは、美味しい料理を作り、父親に褒めてもらうことだった。
父親が亡くなり、姉妹も6年前に亡くなり、彼女一人になってしまった。家事が殆ど出来なくなってしまったが、それでも、自分のことは自分でやるべきで、「人の世話になるくらいなら死んだ方がましだ」と考えている。
それでも、どこかで救いを求めているのか、「足が痛い」と相談をした。

 第2話「世話になったら3倍にして返さねばならない」

30台の独身サラリーマン義男さんは、対人恐怖症で通院している。

彼は、女性とつきあっても、最後のところで結婚できないという問題を持っていた。彼は、いま結婚したい女性とつきあっているが、「見捨てられるんじゃないか」という不安が膨らみ、今度も長続きしないんではないかと感じてしまう。

彼は、女性との一線を越えられず、性関係を上手く結べない。とくに自分の攻撃性を出すと、何もかもを奪い取られるという空想が確信に近いものになってしまう。そして、相手の世話になると3倍にして返さねばならないというルールのようなものを作っていた。

ある日彼は夢を見た。夢の中で電車賃を3分の1に値切っていた。この夢から彼の、3倍にして返そうというルールは、3分の1でいいじゃないかという思いの裏返しだということが分かってきた。「治療費も3分の1でいいじゃないかと思います」と彼は言った。

彼は小さい時から、努力して頑張る性格で、どんなに努力してもみな持っていかれるという恐怖感があったことを語り始めた。どんなに努力しても持っていかれるのなら、3分の1でいいじゃにかと思うようになり。一方、人の世話になると、3倍にして返さなければならないから、そんなには返せないと、「世話にならない」生き方を選んできた。

話を進めるうちに、彼は自分の「厄介な性格を」認め、人の「世話になっても」いいじゃないかと考えるようになり、少しずつ依存できる関係を模索し始めた。

ケース2「恩を知る」

恩を貰うと返さなければならないと考える方が自然であり、恩を返さない人間は「恩知らず」と言われる。恩知らずは、村社会から仲間はずれにされ、人間として扱われない。これはもの凄い恐怖だと想像できる。

一方、恩を与える事にも限度があり、余り沢山の恩を与えると、「恩を売る」といい、相手の負担になるので気をつけようという、絶妙なバランス感覚が日本にある。

こうしたバランスの上に立っているのが私達で、のこバランスが崩れた状態が「世話に成りたくない」人々なのだろう。

そうした、人々との付き合いについて、北山は、「第三者として恩の曖昧さを脱曖昧化する」ことだという。

恩を受けることで生じる重責を、誰の責任にもせず、「ただ置いておく」、「預かる」という態度が重要だと言っている。そうした灰色の領域の中で、恩からの開放が進むのを待つことが求められているのかもしれない。

また、赤ん坊が母親から受ける恩は決して返しきれるものではない。どんな恩にも、返せる恩と決して返せない恩があり、それが区別できるとき、「恩を知る」という状態となる。返せない恩を噛みしめるとき、「すまなさ」をかみ締め、そこから「感謝」が生まれる。

援助を受け入れない利用者を考えるとき、恩という概念は重要だと感じる。「世話にはならない」という人は、「人の恩にはならない」と言っている。

「恩を着せられる」ことが重たいと言っている。そんなに重たい恩は背負いきれない。背負いきれない恩を背負わせることは出来ない。それなら、もっと軽い物を探してやらないといけない。

かといって、重たい物を代わりにに背負ってしまっても、けっして問題は解決しない。その人は、すでに背負いきれない程の「恩」を背負っているのかもしれない。

(「幻滅論」のお話を作り変えています。北山先生ごめんなさい)

 

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