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2006年4月23日 (日曜日)

コミットメントについて考える

電車に乗っていたら、前に座っているお兄さんのチャックが開いていた。

さて、教えてあげるべきか考えた。

先日も、飯田橋を歩いていたら、ジーンズを履きお尻が丸見えのお兄さんがいた。時々、ズボンをずり上げているが、歩くうちにズボンが下がり、お尻が見える。断っておくが、パンツが見えるのではなく、お尻が見えるのだ。

おせっかいなおじさんとしては、気になることが沢山ある。電車の中でお化粧をする。ファンデーションを塗り、口紅をひき、マスカラをつける。化粧道具は隣の席に置いて、電車の揺れも何のその、揺れにあわせて微妙な線を引いている。もはや芸術的である。

また、弁当を食べる、コーヒーを飲む、座って食事を始める、立ってパソコンを操る。子どもを放ったらかして、メールに夢中になる。

子どもが転んだりしたら、「なにしてるのよ」と叱る。何しているのかは「お前のほうだ」と思う。

電車の中で松葉杖を使い立っているご婦人がいた。席に座っている女性は化粧をしている。男性は寝ている。彼女ら、彼らは、「優しくない」のではない。むしろ「やさしさ」に飢えていると思う。どうして席を代わらないかというと、「代わって欲しければ、代わってほしいっていう、サインを出してくれればいいのよ」と言う。

それに、「もし、声をかけた時、「いいわ」って言われたとき、どうすればいいか分からないじゃない」、とも言う。

大江健三郎を見守る女性にも共通する所があるが、コミットメントしたくないのではない、新しいコミットメントの方法が産まれていると感じる。

ポイントは、「距離間」だ。

傷つけ合いながら距離間を学んだ世代と、傷つけることが怖くて距離間を学んだ世代の「間」は違うのだと感じる。

人との距離を感じないほどぶつかり合うことで、これ以上近づくと危ないと感じる距離間をつかむ。それでいて、一定の距離間を取り合いながら人間関係を築く術を身に付けてきた。

一方、傷つくことが怖い世代の距離間は、遠くから見守られることを期待する。やさしさも、感じられるやさしさを望む。一方的に近づいてくる者に対しては、「うざい」といい、距離を取ろうとする。

それでも、愛されたいという欲求は強く、憧れのように膨張している。誰かと繋がっていないと世界中の人間から仲間はずれにされたように感じて、トイレに入っても携帯を握っていないと怖い。メールが来たら、すぐに返事を打たないと「無視した」ように取られることが怖い。

つまり、積極的なコミットメントはしない代わりに、外されることに対する恐怖は大きい。

だから、適当な距離間が取れず、離れてしまうか、危なっかしいほどくっついてしまう。回りが見えない。自分の世界が世界のすべてであり、その世界が崩壊したら世界はなくなると感じる。

若い時代はそんなものだということも出来る。

僕達が子どもだった時代と大きく違わないとも思う、しかし、そのときの大人は子どにコミットメントしていた。うるさい親父がいた。一方的に殴られた。強制されることが多かった。反発をしながら、自分の力の無さを感じ、絶望する方法を学んだ。

それは、ぶつかるべき目標になり、人間と人間の距離の取り方を学んだ。

いま、大人として、僕は、子どもたちに積極的にコミットメントしているだろうか。

若者と距離を置き、「宇宙人と思って付き合った方がいいよ」と考えている大人の責任は大きい。

電車の中で化粧をする人たちは、この世界が作り出した産物だろう。彼ら、彼女らにどうコミットメントしたらいいのだろう。

何か事件が起きると、環境を整備することにばかり目がいく。しかし、環境を整備すれば、きれいにな街を作れば犯罪は無くなるわけではない。

気がついたら、チャックの若者はすでに電車から下りていた。

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