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2006年4月28日 (金曜日)

ゆらぎを考える

ソーシャルワーカーに起こる「ゆらぎ」体験に関する考察。

時間があるときにお読みください。

ソーシャルワーカーの「ゆらぎ体験」に関する考察

「気づき」「自発性」が「自らに働きかける力」を生む

Ⅰ、はじめに 

  ソーシャルワーカーは、対象者であるクライエントと様々な場面で出逢う。クライエントの話を聞き、ニーズを明確にし、クライエントにサービスが受けられるよう援助を行う。しかし、どんなにクライエントの感情を大切にし、気持ちを受け入れた仕事をしていても、望ましい援助関係が結べるとは限らない。むしろ、多くの戸惑いや絶望感を感じ、むなしさを体験しながら関係が終了する事の方が多いかもしれない。それらの体験をここでは「ゆらぎ体験」と呼ぶ。「ゆらぎ」は、クライエントに原因があるだけではなく、多くの場合、ソーシャルワーカーの「感じ方」「やり方」が引き起こすのではないだろうか。そして、その「感じ方」「やり方」は、子ども時代に身につけた自分を守る方法であり、大人になった現在もその「感じ方」「やり方」から抜け出せないでいると考えられる。

小論では、ソーシャルワーカーが「ゆらぎ」から抜け出す方法として、「気づき」「自発性」を取り上げ、それらの力を獲得することで、ソーシャルワーカーが援助関係のなかでクライエントとの関係をしっかり受けとめることができる「自らを変える力」を獲得できることを考察してみたい。

Ⅱ、援助関係の中でのソーシャルワーカーの「ゆらぎ」

 ソーシャルワーカーとクライエントとの「援助観系」とはどのような状態をさすのであろうか。これについて稲沢は、「援助を目的として取り結ばれる人と人の関係である。すなわち、援助関係とは、もともと『援助を目的とする』という側面と、『対人関係』という側面との二つの構成要素を含んでいる」1)と、説明している。また、バイスティックは、「ケースワーカーとクライエントとのあいだで生まれる態度と感情による力動的な相互作用である」2)と言っている。

 援助関係では、多くの場合、ソーシャルワーカーはクライエントと態度や感情がぶつかり合い、様々な感情を体験する。そして、援助関係がうまく結べない場合、行きづまりを感じたり、限界を感じたりすることが多くある。それは、援助関係を「もうこれ以上できない」と無力感を感じることであり、クライエントの気持ちがつかめず「わからなさ」を体験することであり、クライエントと家族の間に挟まれ「迷い」を感じ、「葛藤」しながら援助をすることである。そんな時、ソーシャルワーカーは「ゆらぎ」を体験する。感情としては、「無力感」「わからなさ」「迷い」「葛藤」などを感じる。そこで、この四つの感情が援助関係に与えている意味を分析する。

1)   無力感、わからなさ

 無力感とは、自分には物事を理解したり解決したりする能力がないと感じ、そのことで自らの限界を知り、気持ちが落ち込んでしまう状態である。ソーシャルワーカーは、「人の心をわかりたい、理解したい」と努力する。しかし、「ものごとは努力では解決しない」3)ことが多くあり、「ひとの心がいかにわからないかということを、確信をもって知っているところが、専門家である」4)とも言われる。つまり、援助の現場において、クライエントの「わからない」部分をしっかり捉え、「わかる」ことが必ずしも解決につながらないことを知っていることが必要になる。「無力感」「わからなさ」を感じないようにしたいというソーシャルワーカーの内的機制や、「答え」を出すことを急ぐ「あせり」が、「つまづき」を生んでいる。ソーシャルワーカーの専門性とは、援助関係での「無力感」とじっくりつき合うことや、クライエントと共に「わからなさ」を感じることができる力を持つことである。

2)   迷い、葛藤

 「まよい」とは、物事に対して、「どうしてよいかわからなくなくて判断がくだせない」5)状態。葛藤とは、「こころの中で、それぞれ違った方向あるいは相反する方向の力があって、その選択にまよう状態」6)である。

援助関係では、これが「正しい」という確信を持った時に「迷い」が起きる。クライエントと何度も打ち合わせをして出した結論でも、「それでほんとうによかったのか」と考えると、「わからなく」なる。それは、ソーシャルワーカーが未熟だからでも、問題が複雑だからでもない。むしろそれは、「ほんとう」のもつ特質に由来している。援助関係には「ほんとうによかったのか」を考えると「まよい」が生まれる仕組みがあり、援助の現場にはどうしても「曖昧さ」が必要になるゆえんである。

増田は、看護現場の悩みを「勤務時間が終わったあとでも、あの患者にあの方法でほんとうによかったのか、もっといい方法はないだろうか思いつめる。思いつめて睡眠不足になったり精神が不安定になったりする」7)と、看護師のつぶやきを紹介している。同様に、ソーシャルワーカーは、援助の現場で答えを求めるクライエントに出来るだけ答えようとがんばる。しかし、その答えが「ほんとうに」正しかったのかとの「迷い」から逃れるこことはできない。この「迷い」から抜け出したいという思いが、「決めつけ」を生み出し、「葛藤」から抜け出すために「がんばる」ことが、「つまずき」を生むと考えられる。

医師の徳永は、医療の現場の実情を、「医療に限らず、それは〈現場〉というものがもっている本質なのだが、現場という所には、すでにできあがっている正しい答えというものはない。それはかくあるべきだ、というふうに一般化できない事情というものをそれぞれの患者や家族や医療者が持ち合わせていて、単純でないからだ。おおよそのパターンはあるとしても、あくまで一つの症例が独特で、それぞれの症例にそれぞれの答えがあるにすぎない」8)と、現場の特質を指摘している。

現場というものがもつ「あいまいさ」は、援助関係が持つ「あいまいさ」でもある。援助の現場は、「これが正しい」という答えがなかなか見つからない。最善と思われる選択でさえ、「ほんとうによかったのか」という問いの前には揺らいでしまう。つまり、ソーシャルワーカーが援助関係の中で「つまずく」のは当然であると言える。そうした前提にたって、援助関係を構築していかなければならないところにソーシャルワーカーのジレンマがある。

Ⅲ、「つまずき」はソーシャルワーカーのラケット感情が関係している

私たちが援助関係なかで「いやな感じを抱いたり、または何らかの意味で傷つけられ終わる一連の交流」)交流分析では「ゲーム」と呼び、ゲームの後に感じる「後味の悪い感情」を「ラケット感情」(表1)と呼ぶ。私は、このラケット感情がソーシャルワーカーに混乱を与え、「つまずき体験」に関係している要因だと考える。

ゲームが起こると、ソーシャルワーカーは、普段通りにクライエントと関わりを持っていると思っていても、「うまく関係が結べない」「馬が合わない」という、なんとなく感じる「妙な気持ち」を味わう。そして、次第にクライエントに「巻き込まれ」たり「ふりまわされる」ようになり、最後には必ず表(1)にあるような「ラケット感情」を味わって終わる。

 たとえば、「さまざまな形で相手のひんしゅくを買う言動をくり返すことによって拒絶を招く、あるいは罰を受けるという結果に終わる」10)交流を体験する「キックミー」と呼ばれるゲームがある。このゲームをする人は、自分にマイナスなストローク(交流)をして貰うことで愛情を受ける脚本を作っている。多くの場合、「キックミー」をする人たちは、子ども時代に親の関心を引く行動として、「わるさ」をしていたと想像できる。親の愛情を受けたいがために「わるさ」をすることは、多くの児童養護施設の子どもたちが親の愛情を受けたいがために、スタッフの気を引く行動をとり、反社会的な行動を行うことでも知られている。

「キックミー」の感情を持ったクライエントは、来所すると、突然口論を吹っかけてくる。ソーシャルワーカーは、なぜそんな行動に出るのか理解することができず、受けとめられないまま、「わからなさ」を感じ、「混乱」した状態となる。クライエントの方は、「なぜ自分の気持ちをわかってもらえないのか」「どうして自分ばかりこんな目にあうのか」と自分が犠牲者であるような気分になる。これが「ゲーム」と呼ばれる交流であり、クライエントやソーシャルワーカーが感じる気持ちが「ラケット感情」である。

表1)ラケット感情になり得る感情11)

1)怒り 2)恐怖、3)劣等感 4)罪悪感 5)イライラ 6)優越感 7)疲労感 8)絶望感 9)虚無感 10)見捨てられた気持ち 11)混乱 12)自己卑下

13)傷心 14)ライバル意識 15)落胆 16)悲哀 17)憐憫 18)当惑 19)かんしゃく 20)むなしさ 21)甘えたい気持ち 22)不安 23)無力感 24)不全感 25)憤り 26)緊張感 27)嫌悪感 28)猜疑心 29)孤独感 30)焦燥感 31)同情心 32)恋慕

33)義務感 34)使命感 35)敗北感 36)後悔 37)恥辱、不面目 38)羨望 39)怨み  

40)拒絶感 41)批判・非難 42)憂うつ              

Ⅳ、ラケットは、こども時代に身につけた自分を守る戦略である

私たちは楽しい経験でもない「ゲーム」を何度も繰り返している。ヴァン・ジョインズは、「ゲームをしている時、私たちは時代遅れの戦略に従っている」といい、また「ゲームをすることは、私たちが小さな子どもの頃に身につけた、欲しいものを周囲の世界から得るための一つの計略である」12)と解説している。「ゲーム」は子ども時代に身につけた愛情をうけるための戦略である。その戦略がたとえ間違っていても愛情を得るために有効な手段であれば、次第に強化され、最終的に自分の情動のパターンとなる。そして、ゲームの方程式は次のようなものである。

仕掛け・罠・餌(con)+弱点(gimmick)=反応(response)→交代(switch)→混乱(surprise)→結末(pay off

エリック・バーンによると、「(con)とはプレイヤーが相手を〈引っかける〉ために使う餌である。〈gimmick〉とは、〈餌にひっかかって〉しまうこと自ら許してしまう心理的な弱身である。彼が相手の〈餌・con〉に反応したとき、彼は〈引っかかった〉」13)と言っている。一度引っかかってしまうと、テレビのチャンネルを回すように、気持ちの変化が起きる。突然相手に「イライラする」「悲しい気分になる」などのラケット感情を感じ、混乱して終わると解説している。

河合は、「仕事に失敗してしまったが何とか努力を重ねて立ち上がり、もう少しでうまくいくというときに交通事故に遭って入院してしまう。ここでくじけてはならないと思い、退院後には仕事のおくれを取り返そうと頑張り続ける。そして、もう一息というときになって、交通事故の後遺症が出て再入院ということになる。ここまでになると気持ちがくじけてしまい、自分の不運をなげく」人の事例をあげ、「この人になかに『もう一息というときに生じる失敗』というテーマが繰り返されている」14)と言っている。つまり、この人は、失敗をすることで感じる「ラケット感情」を得るために、わざわざ失敗をしていると解釈できる。このようにゲームには隠された目的があり、ゲームをしている人は、それがラケット感情を味わうためのゲームだとは気づかない。ラケット感情は、表面的な行動や気持ちと内的な感情の「ずれ」を生じる「ねじれた感情」である。私たちは幼い頃から、愛情を受けるための特定の方法を身につけ、その人の人生脚本を書き上げ、脚本の思いこみを正当化するためにゲームをしていると考えられる。

【ケース1】「はい、でも」のゲーム

在宅介護支援センターの相談員山本さんは、利用者から頼まれると嫌と言えず、何とかして利用者の問題を解決したいと熱心に仕事をしている。

Aさんのお父さんが脳梗塞で倒れ、介護に困って支援センターに来所する。山本さんは、介護保険の使い方を説明し、申請を勧めた。

Aさん「わたしもそれがいいと思うんですが、しかし、父が反対なんです。国のお世話にはなりたくないと言うんです」

山本さん「介護保険は、健康保険と同じですよ。保険料だって払っているんだし」

Aさん「わたしもそう言ったんですよ。しかし、言うことを聞かなくて」

山本さん「私が伺って説明しましょうか」

Aさん「人の言うことは聞かない頑固な人だから、無駄ですよ」

山本さん「でも、困っているんでしょ」

Aさん「困っているんです」

山本さんは、なんとか困っているAさんを支援しようといろいろな提案をするのだが、Aさん聞かれる返事は、「はい、でも」である。「はい、でも」のゲームがしばらく続くと、Aさんは、「無力感」「疲労感」というラケット感情を感じ、山本さんは、「むなしさ」「イライラ感」というラケット感情を感じる。Aさんにとって山本さんの、「助けてあげたい」という姿勢が餌(con)になっている。そして、山本さんにとって、Aさんの「困っている」という態度が餌(con)になっている。ゲームは、一度餌に食らいつくと、ラケット感情を感じるまで、ゲームは終えにくいことが特徴である。

Ⅴ、援助者が持ちやすいラケット感情

 私たちは、「子ども時代に家庭の中で受け入れてもらえなかった感情をいまだに抑圧して押さえ込んで」15)いる。そして、「子どもがいったん〈不幸〉のうちのどの感情を表すかを学習してしまうと、他人を捜査するために、このラケットをつかう」16)と交流分析では考えられている

 援助者の多くは、子ども時代にそれぞれ特有の「ゲーム」を学習して育つ。なかでも、対人援助サービスに従事するソーシャルワーカーが学習する「ゲーム」として「子どもであるな」という「ゲーム」がある。それは、親から「子どもであるな」というメッセージを与えられるもので、「早く大人になる」「一人前になる」ことを奨励する言葉や態度で伝えられる。そして、幼いうちから厳しく躾られ、自立した大人になることを期待される。

「子どもであるな」というメッセージを受けて育った子どもたちは、親の愛情を受けるために次のような決断をする。それは、「人には何も頼まない、自分の事は自分で決める」「困っている人の面倒を見ることが私の仕事だ」「楽しむことは良くない」「子どもじみた考えはしない」などの決断である。それらの決断は、心の中では、「子ども」のままでいたいと思っていても、「おとな」の価値観を反映した行動となって現れる。このように育てられた子どもたちの多くは、対人援助の仕事、福祉・教育・医療の仕事に価値観を見いだし、人のためになる仕事を選択するようになる。それは、親から受けたメッセージを実行するためであり、同時に自分自身も「しっかりしている」「がんばっている」というストローク(交流)を受けたいがためである。

彼ら、彼女らがとる行動は、自らが決断したラケット感情を受けるような行動であり、休むことを罪悪視して仕事に没頭し、クライエントの問題を抱え込む行動となって表れる。そして、最後には、クライエントとの間で「子どもであるなゲーム」を行い、「無力感」「疲労感」などの「ラケット感情」を感じ、「やっぱりそうか」と自分の信条を満足させてくれた感情を味わうことになる。

渡辺は、そのことを「愛他主義」と呼び、援助者の「自分を犠牲にする心理」だと言っている。「愛他主義」は、「かなえられない自分の願望を他の人物に投影して、その人がその願望を満足させるのを助け、自分が間接的な満足を得る心理機制が機能する。ケアの現場では、世話されたい自分の気持ちをケアの相手に投影して、『相手を世話することによって、自分が世話されたい気持ちを満たす』行為」17)だと言っている。

 「子どもであるな」のゲームは、援助現場のなかでは、クライエントのラケット感情と結びつきやすく、お互いに「引き合い」を起こす。それは、薬をたくさん出してもらい安心する患者と、薬をたくさん出すことで、医師として仕事をしていると感じる医者の関係に似ている。老人は老人を演じることで社会から認知を得られるように、援助者が熱心に困っている人の世話を焼くことが社会的に期待されていることも、「子どもであるな」というメッセージが、援助者にとってゲームとなりやすいことにつながる。

【ケース2】父親と同年代のクライエントに緊張してしまう佐藤さん

 福祉事務所のケースワーカーの佐藤さんは、最近管理職となり、若いケースワーカーの相談をよく受けるようになった。特に、苦情処理の相談が多く、その際、若いワーカーの代わりに五十代、六十代の男性と面接をしていると、息が苦しくなり、のどに違和感があることに気づいた。面接で相手の顔を見ると、言うべきことの半分も言えず、面接が終わったあと必ず、「恐怖感」「未熟さ」を感じていた。

佐藤さんは、教員の両親の一人娘として育てられ、その土地としては珍しく、大都市の大学を卒業した。父親は教育に熱心で、「女の子だからといって甘えるな」「人のためになる仕事をしろ」が口癖だった。佐藤さんも父親のことが好きで、期待に応えようと、大学を卒業すると地元の役所に入り、福祉職についた。以前から、中年の男性が苦手であったが、最近とくに、父親と同じタイプの一方的に話をするクライエントとの面接になると、のどに違和感があった。その気持ちは、子どもの時、父親に前では我慢をして言いたいことを言えず、話が終わったときに感じていた気持ちを一緒だと気づいた。佐藤さんは、クライエントから一方的に話をされた時、子ども時代に父親との交流で、「惨めさ」「恐怖感」「無力感」などを感じていた。そして同時に、身体がこわばり、のどが詰まるような感じがした。佐藤さんにとってのラケット感情は「未熟さ」「恐怖」「無力感」であり、身体的反応としての「のどの違和感」であった。のどの違和感は、佐藤さんに「気づいて」くれるように働きかけていたのである。

Ⅵ、ゲームから抜け出すには、「気づき」「自発性」が必要である

 佐藤さんのケースでもわかるように、「ゆらぎ体験」から抜け出すためには、「気づき」が必要である。

1)             気づき

「気づき」とは、新しい情報を身につけることではなく、自分がしまい込んでしまっている感情や気持ちを、五感をつかって「感じ直す」こと、「思い出す」ことである。それは、「自然観察者」のようにふるまい、目の前に現れた「ものごと」をありのままに捉えることである。今、「なにが、起こっているか」「どんな気持ちを感じているか」それを「どこで感じているか」など、自分自身の変化や気持ちの有り様に注目することである。多くの場合、言葉に表れにくい兆候が現れる。それは、感情であったり、からだの変化であったりする。「気づき」を導くには、自分自身に関心を持ち、自分との対話を行うことが重要である。「いま、何を感じているの?」「どんな気分なの?」と、シンプルに自分自身を観察する視点が「気づき」につながる。

私たちは大人になるに従い、多くの感覚、感情を押し込めてきたことはすでに述べたが、それらを解放し自由にすることが、「気づく」ための近道である。それは、「子どもであるな」の状態の自我を、「子どもの状態」に戻すことでもある。交流分析では、変化を生む状態は子どもの自我、FCfree child)のチャンネルだと言っている。だとすれば、援助者の多くが「子どもであるな」のメッセージを受けて育ったことは、一番大切な部分、変化のために一番有効性の高いFCのチャンネルを仕舞いこんでいることになり、「気づき」の少ない状態となっていると考えられる。

「こども」時代に感じた感情に縛られているような場合、これは、「ゲーム」だと気づくことが大切である。「ゲーム」をしている時に感じる感情を充分に味わい、受けとめることが大切となる。自分に何が起きているのか、自分の感じる気持ちはどこから来るのか、それにはどんな意味が隠されているのかを確かめる作業が必要となる。それは、フォーカシングのフェルトセンスに近い感覚である。

また、「気づき」を阻害するものは「決めつけ」である。クライエントについての「決めつけ」は、ソーシャルワーカーの「気づき」を否認してしまう。「この、クライエントはいつもこんな風にソーシャルワーカーを困らせる傾向がある」「○○症の患者特有の反応だから」と決めてけることで、自らの動揺を隠してしまうことになる。さらに、「決めつけ」は、クライエントの可能性や「健康な面」を見るという多様的な援助関係を阻害し、ソーシャルワーカーの自己防衛が全面に出た状態である。

2)             自発性

「気づき」を促すためには「自発性」が大きな役割を果たす。

自発性は、自由さ自在さを発揮させる。自発性は、問題の解決を可能な限りの多様な代替案から選択することのできる能力である。尾崎は、それを「自然体」と呼び、「自分に対する無理のなさ、率直さであり、また、偏った援助観や先入観に固着していない柔軟さ、あるいは自由自在さ」18)であると述べている。ある時は、「子どものように」感じ、時に、「大人として」判断し、「親の気持ち」を考えた配慮ができるような柔軟さがそこにはある。

自発性が発揮されると、「感じ方」「考え方」「行動」を自由に変えることができるようになる。変化を楽しむ勇気が持てるようになり、いつでも「やり直し」をする決断を下せるようになる。自発性が発揮されれば、援助を「する」という方向で縛られていた感情から解放され、時には、クライエントから離れることや担当を変わる決断ができる。つまり、「できない」「わからない」というということを認められ、自分の「わからない」部分が「わかる」ようになり、「できる」ことと「できないこと」を分けて考えられるようになる。それは、今までの「やりかた」「感じ方」から解放され、「こだわり」を持たずに、自由に考え、感じ、そして行動できる状態である。さらに、「自発性」の持つこれらの特質は、「曖昧さを受け入れる力」となると考えられる。

Ⅵ、曖昧さを受け入れる力

1,内面への働きかける力

 ゲームから抜け出すには「気づき」「自発性」が必要だと述べたが、それらは、自分自身の「内面に働きかける力」である。尾崎は、ソーシャルワーカーが「『相手に働きかける技術』に捕らわれるあまり、援助者自身を見失うことも少なくない」といい、「相手や援助に対する防衛や構え、あるいは先入観や意気込みを自覚し、それらからできるだけ自由になる」19)ことが「自分に働きかける」技術だと言っている。

稲沢は、援助者が主体となってクライエントをコントロールするのでなく、「クライエントのもつ力をクライエント自身が気づくこと、さらには、クライエント自身がその力をコントロールすること」が重要であり、「クライエントを癒すのはクライエント自身に内在する力である」、また、「援助者というものは、クライエントの持っている力をクライエント自身に向けさせる契機にすぎない」20)と述べている。尾崎も稲沢も、援助者はあくまでクライエントの「気づき」を側面から支援する存在であると述べている。さらに、クライエントのもつ自己回復力(ホメオスタシス)を最大限に生かせるとき、クライエントが自らの力によって回復する。「自らに働きかける力」とは、私たちに内在している能力である。杉田は「敵対する二者は充分に攻めあうと、たがいに肯定的な面にきづきはじめ、ついには許しあう」21)TA・ゲシュタルト療法を紹介している。「気づき」によって起こる感情のぶつかり合いが充分に起こるとき、体内の自然治癒力(ホメオスタシス)の活性化により、「自らにはたらきかける力」を活用できるのである。

2,ユーモアと笑いが「気づき」を生む力となる

 「死の教育」を提唱しているアルフォンス・デーケンは、悲嘆プロセスの紹介のなかで、そのプロセスは「混乱状態に投げ込まれた情動に秩序を取り戻し、現実に対する健全な適応力を回復しようとする自然な反応である。それは、単に悲しみを耐えしのぶというだけの消極的な行為ではなく、人生の大いなる挑戦(チャレンジ)に対する積極的な応答である。悲嘆のプロセスという試練を通じて自らの直面する大きな苦しみを克服した人は人間的にも大きな成長を遂げ、新たな困難に際しても、より成熟した対応が可能である。」22)と言っている。そして、そのプロセスは、①精神的打撃と麻痺状態→②否認→③パニック→④怒りと不当感→⑤敵意とうらみ→⑥罪悪感→⑦空想形成・幻想→⑧孤独感と抑鬱→⑨精神的混乱とアパシー(無関心)→⑩あきらめ=受容→⑪新しい希望=ユーモアと笑いの再発見→⑫立ち直りの段階=新しいアイデンティティーの誕生23)の順に経過するのである。

 注目したいのは、このプロセスが「気づき」のプロセス、または、「ゲーム」からの立ち直りのプロセスと大変よく似ていることである。その中でも重要なことは、⑩の「あきらめ、受容」することにより、⑪「新しい希望としてのユーモアと笑い」が生まれる過程である。「気づき」にとって、ユーモアは大変重要なテーマである。ユーモアとは「にもかかわらず笑う」ことであり、「立ち直り」を冷静に支えてくれる力となるのである。

笑いの効力については最近注目され、アレン・クラインは、その著書のなかで、ユーモアと笑いの効能を取り上げ「私は自分の笑い声を聞いたとき、自分が治りかけてきたことがはっきりわかった」24)と紹介している。つまり、困難でせっぱ詰まった状態だからこそ笑いが「ゆとり」「あそび」を生み、人間の持ち続けてきた「自分を癒す力」に気づかされるのである。河合はホスピスの仕事をしている淀川キリスト教病院の柏木哲夫さんの病院でのカンファレンスを、「毎日の仕事の終わりに、医師、看護婦などのスタッフの集まりがある。そのときに『本日のユーモア』という少しの時間があり、そこで、スタッフの人たちがその日に経験したユーモラスな話を紹介し、全員が笑って、その会を終了する」25)と紹介している。

これらの事例は、単に気休めに「笑いや」「ユーモア」を取り上げているのではない。人が追い詰められたとき、変化の境目に差しかかたとき、そのときに「自由な子どものように感じる」感性が「気づき」につながると考えられてきた証拠である。昔から、その効果を知っていた西洋では、緊張したスピーチの前にジョークをいって会衆と自分自身の気持ちを落ち着かせて来たのだ。

あとがき

 ソーシャルワーカーが援助観系のなかで「ゆらぎ体験」をすると、まず、クライエントの問題に目が向く。そこで「問題のあるケース」という「決めつけ」を行ってしまうと、「ゆとり」のない状態となってしまう。「ゆとり」が持てないため、「自らに働きかける力」は働かず、対象者であるクライエントを「変える」ことに援助の方向が向いてしまう。そして、問題は解決しないまま、「無力感」「まよい」を感じる「ゆらぎ体験」となる。

 私は、そんな「ゆらぎ体験」を、ソーシャルワーカーがケースについて「考え直すチャンスをもらった」と捉え、「喜び」としての面を強調したい。「混乱」は、深く考えるためのきっかけである。「わからなさ」「無力感」は、クライエントへの接近方法につながり、「迷う」ことで、多面的なアプローチが可能になる。

援助関係の中での「気づき」とは、私たちが長い間しまい込んでいた感情や気持ちを知ることであり、クライエントとの間で起こっている出来事をつかみ直す作業である。そして、「気づき」「自発性」を獲得したソーシャルワーカーは、「ゆらぐことのできる力」26)という柔軟でしなやかな「自らに働きかける力」を使うことができるようになる。    

日々の実践で「つまずき」を感じたとき、まず立ち止まり、「こころの中の静かな小さな声」27)に耳を傾けてみると、やさしい声が聞こえてくるかもしれない。

付記 本稿は、東京都社会福祉司会「平成14年度ソーシャルワーク研修」に参加しながら執筆した。講師の尾崎新先生、参加者にこの席を借りて感謝の言葉を伝えたい。

注)

1.        稲沢公一「援助者は『友人』たりうるか」『援助するということ』有斐閣2002175

2.        バイスティック著 尾崎新訳「ケースワークの原則」誠心書房199617

3.        河合隼雄「こころの処方箋」新潮社1992年89頁

4.        前掲3)「心の処方箋」8頁

5.        大野晋、浜西正人 「角川類語辞典」1891年

6.        大野晋、浜西正人 「角川類語辞典」1891年

7.        増田れい子「看護―ベッドサイドの光景」岩波新書1996年159頁

8.        徳永進「死の中の笑み」ゆるす出版 1992年

9.        メリイMグールディング、ロバートLグールディング著 深沢道子訳

「自己実現への再決断」星和書店 1980年 45頁

10.    杉田峰康 「新しい交流分析の実際」創元社 2000年 274

11.    前掲10)「新しい交流分析の実際」63頁

12.    イアン・スチュアート、ヴァン・ジョインズ著 深沢道子訳

TATODAY」実務教育出版 1991年 309頁

13.    前掲9)「自己実現の再決断」48頁

14.    河合隼雄「カウンセリングと人間性」創元社 1975年 11頁

15.    前掲9)「自己実現の再決断」218

16.    前掲9)「自己実現の再決断」219

17.    渡辺俊之「ケアの心理学」ベスト新書 2001年 41頁から42頁

18.    尾崎新「対人援助の技法」誠信書房27頁1997年

19.    前掲18)「対人援助の技法」22頁

20.    前掲1)「援助者は『友人』たりうるか」176頁

21.    前掲10)「新しい交流分析の実際」48頁

22.    曾野綾子・アルフォン・デーケン編「生と死を考える」春秋社1984年69頁

23.    前掲22)「生と死を考える」70頁から77

24.    アレン・クライン「笑いの治癒力」創元社

25.    河合隼雄「対話する人間」講談社α文庫2001年 272頁

26.    尾崎新「ゆらぐことのできる力」誠信書房1999

27.    マーティン・L・ロスマン著 田中万里子、西澤哲訳「イメージの治癒力」日本教文社1991年 106頁

参考文献

1,アン・ワイザー・コーネル著大澤美江子・日笠摩子訳「the power of focusing―やさしいフォーカシング」コスモライブラリー 1999

2,アン・ワイザー・コーネル著村瀬孝雄監訳「フォーカシングガイド・マニュアル」金剛出版 1996

3,アン・ディクソン著竹沢昌子・小野あかね訳「第四の生き方」つげ書房新社1998

4,スーザン・フォワード著玉置悟訳「毒になる親」毎日新聞社1999

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