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無料相談会のお知らせ
日時;メールで問い合わせください。
11月は、15日、17日、23日、30日が可能です。
時間は一人30分
場所:新百合ヶ丘辺りの喫茶店。
木曜日、金曜日については調布、三鷹辺りでもOK.
内容:当ブログに書かれているようなことなら何でもOKです。
というものをはじめます。
申し込みはメールでお願いします。
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福祉施設を案内してもらうことがある。
案内とは、そこでどのようなサービスを行っているかを紹介することだと思っている人が多いが、本当にそうだろうか。
案内する人(施設の人)は、見学に来る人は皆、施設の全てを知りたがっていると思っているようであるが、そんなことはない。
ちなみに、「何が見たいですか?」「どこが見たいですか」と聞いてください。
そして、「その、どんなところを詳しく見たい(知りたい)ですか?」と。
そうすると、初めて来た人にとって「よく分からない」と答えるだろう。
つまり、見る前に(見せる前に)話をよく聴く必要がある。人は、興味がある、関心があるところを見る(見せる)場合に、満足度が高くなる。
だから、
話を十分に聞いた後では、見学しなくてもよくなるかもしれない。
話に聞いたことを見学で確認することができるかもしれない。
壁にある「あれ」は、実は「あれ」なんですと云われれば、壁をさわり、「やっぱりあれは凄いですね」となる。
つまり、見学はおまけである。
おまけでない見学は、自由に散策できる場合だけだと思う。
自分が見たいもの、興味がある所を見る。これは、美術館で作品を見るようなものだ。
見学で「良かったです」と言われる時は、見学したことではなく、案内の仕方や接客態度が「良かった」と云っている。
見学者には、見て欲しいポイント、つまりビューポイントだけでも事前に説明するといい。できたら、作品の紹介パンフレットを作ることをお勧めしたい。
そうでなければ、話をもっと聞いて欲しい。
ジョン・バニヤンを知りません。
天路歴程を読んだことはありません。
話は変わって、「かもめ食堂」をテレビで見た。
さちえ(小林聡美)が、「嫌いなことはしないようにしているの」と云っていた。
映画で見るさちえは、自由である。
ヘルシンキから沖縄に飛び、チェンマイで暮す。
家族がいてもいなくても、人生をどう生きるかという面では、しっかりしている。
三谷幸喜ではこうはいかない。(たぶん)
どっかに、何かが引っかかっている。それは犬かも知れないし、仕事かも。
とにかく、何かをぶら下げている。
引きずる人生というのも、格好が悪くていい。
そう
「逆説と対抗逆説」という話を読んでいる。
すっきりしない人生。
それは、落ち着かない人生であり、片付かない人生だ。
とにかくごちゃごちゃしている。
その散らかり具合が楽しそうだ。わくわくして。
しかし、側にいる人は迷惑だろう。
それが嫌なら、一人で食堂をはじめよう。
どっちを選ぶ?
店舗は空いてます。
眠い顔の青井さん(仮名)を訪問。
部屋に入ると、硬い枕を敷いて寝ている。しかし、人の気配で目を開ける。
テレビは大音量でついているのにそれには反応しない。
青井さんは夢を見たと、報告してくれる。
「お母さんに会いに行ったのよ。そしたら、死んじゃったって云うじゃない。一緒に暮らそうとしたのに」
「ふーん」と返事をする。
「お母さんと暮らしたら楽しいじゃない、でもね、死んじゃったのよ。昨日」という。
青井さんに冗談をいう。
青井さんが笑う。
青井さんを褒めちぎる。
青井さんが嬉しそうに笑う。
「ことろで、仕事しているの」と心配してくれる。
「何とか」という。
「はやく、配った方がいいわよ」と、弁当の配達をしろという。
「はい」といい、青井さん見る。
もう寝ている。
「じゃあまた」といい、弁当を配りに行く。
Tony Mcmanas の The Maker`s Markをインターネットで買った。
彼の曲を聴いていると、昔、キツネだった頃のことを想い出す。
草原に隠れ、何かを待っていた。
キツネには名前がない。ずっと一人で餌をとっていた。
名前は友達がいるキツネに必要なもので、僕には必要がなかった。
ときどき風に吹かれながら夢を見る。
夢の中ではやさしい女の子が見える。草原の彼方から現れ、そして、僕をやさしく見てくれる。金色の髪が風にそよいでいる。
目が覚めると、草がなびいている。
僕は、大きく吠える。
僕の声は空に向かってのぼり、そして、霧になる。
精神的な病気であることでシャットアウトされることは差別である。
しかし、当然のように、「手がかかるから」という理屈で入り口から入れないことがある。
認知症という病気であるということで説明さえしてもらえないことは、基本的権利の侵害である。
しかし、「本人が混乱するから」という理屈で手続が進む。
誰のための理屈なのか。
もちろん、施設や制度のためであろう。
民主的な手続は面倒なことが多い。しかし、手順を踏んだり、時間をかけて説明することは、私たちが手に入れた新しいシステムではないのか。
問題は人ではなくシステムだとすると、私たちがそれを望んでいるのだろか。
中学生のように胸が痛い。
ジャンプすると背中が痛い。
これは青春の痛みかと我慢している。
今朝のお悩み相談で、上野先生が回答を寄せいていた。
上野先生の回答は、いつも意外な展開でハットさせられる。
ハットさせられると云えば、F先生のゼミも同様。
予想を裏切る展開に息が抜けない。
息を詰まらせてばかりいたので背中が痛いのだろうか。
胸の痛みを我慢しながらジャンプしていたら、横を通った少年が「それは、老人性の痛みだね」とボソット云って去っていった。
そう言われることは想定内である。
お昼にファミリーレストランに行った。
名前を書いて待っていた。
順番は4番目。
しばらくすると、「アサオカさん」と呼ばれた。
すると、僕の横に座っているお姉さんが、小さな声で、それでいてはっきり聞こえるように、「ルリ子、いや、今だったら、ユキジかな、ウフフ」と云った。
どこから聞こえてきたのか下を向いて、目だけ右一杯に動かして声の聞こえるほうを探した。
そこに居たのは、隣のお姉さんだ。
次の順番が早く来ないかとウキウキした。
店の人が名前を見ている。
そして、「田中さん」と、呼んだ。
すると、「マリコかな、いや、爆笑問題のタナカかな、ウフフ」と、また言った。
これは、間違いないと確信した。
横のお姉さんは、何もなかったように、メニューを見ている。
さて、次はどんなことを云ってくれるのか、ますます楽しくなってきた。
店の人が来た。
「モトハシさん」と呼ぶ。
しばらく待っても、何も起こらない。ただ、もとはしさんが椅子を立って、誘導されていく。
どうしたんだお姉さん。
あきらめかけていたら、続いて「サイトウさん」と呼ばれた。
すると、僕の後ろの方から、
「ユウキかな、いや、おじさんだね、ハンカチじゃまにあわないね、タオルだね、ウフフ」と聞こえた。
ICUの森で迷子になる.
木曜日は,死生学,生と死のカウンセリングなど,生きることと死ぬことを学ぶ授業が立て続けにある.
そこに,迷子が重なる.
「死を迎える前に死を経験すれば,もはや死ぬことはない」そんな状態である.
迷子とは自分が立っている場所が分からなくなる状態.立っていることは分かっていても,そこがどこなのか,どこに向かって進んでいるのか,混乱する.
若い頃は,「自分が死ぬなんて」考えられなかった,しかし,いまでは「自分が生きていることが」信じられない.
生きているだけでありがたい.
道があり,それがどこかに繋がっている.
右に右に歩いていけば元居た場所に戻れるはずである.そう信じて歩き続ける.
そこが天国でも,そうでなくても,歩くことしか出来ない僕には,他にすることはない.
若く見られる。
と言うことは、若くはないということ。
幾つに見られるかということより、自分の姿が気に入らない。
自転車で走っていても、写真に写る自分は、自分でない(ような気がする)。
奈良公園で鹿とツーショットで写っていても、自分でない。
では、自己イメージはどのくらいなのだろうと考えていたら、その答えの人が酒を飲んでいた。
どうも、僕のイメージは35歳くらいで止まっている。
その男性は35歳くらい(たぶん)。
しかも、自分がそこに居るような感覚を覚えた。
「やあ、そんなところに居たんですね」と、声を掛けたくなった。
久しぶりの再開は感動ものだった。
ずっと後を着いて行きたくなった。
どこに行くのだろう。
家に帰るのだろうか。だれと住んでいるのだろうか。どんな人かな。
それは、想像だけで止めておいた。
哲学者鷲田清一は「聴く」ことに拘り、なにかを聴こうとする人の物語を書いている。
聴こうとする時には、目も前に人がいる。
その時、身体を前に傾けると聴けなくなる。
横を向いても聴けない。
それでいて向かい合う距離がとても辛い。
聴くことは勝負である。
勝敗ではなく、その緊張感が、ゲームとしての間合いがあるように感じる。
星治さん(仮名)との会話は続かない。
なにかを云ってしまうと、「それっきり」になってしまうようで怖い。
それでいて、なにも言わないではすまされない雰囲気を星治さんは持っている。
「どうしてもできないんです」と消え入るような声で、次の言葉を求めている。
誰に求めているのか、どこに求めているのかは分からない。しかし、目の前にいるのは僕だけだ。
ふたりの間にある空間になにかがあるとでもいうのだろうか。
そこには目に見えぬ穴が開いているのかも知れない。
沈黙が続いている。
僕らは穴に落ち、それでいながら明るい空を眺めている、そんな空想をした。
どれ程の時間が過ぎただろう。
目を上げると、星治さんの姿勢は変わっていない。
なにも変わらない、変わることは永遠にないだろう。それでいて、少し前の空間ではないことは確かだ。
聴いているのか、聴かれているのか、それさえも分からない。
ただ、ふたりの時間は過ぎてゆく。
奈良、京都、大阪と回って気づいたことがある。
それは、奈良の素敵さだ。
京都にも、大阪にも近いのに、その田舎文化を守っている。
それを「奈良っぽい」という。
何しろ、奈良駅という県庁所在地(たぶん)に鹿がいる。それは、日比谷公園に羊がいるようなもの。または、梅田に熊がいるようなもの。
事務所の前に、鹿がやってきて、植木を食べている。
それを「奈良っぽい」という。
また、奈良駅の隣には広大な空き地がある。平城京があったところが広大に空いている。
夜が暗い、空が広い、夕焼けが赤い。
そんな当たり前の景色をいまだに持っている。
それを「奈良っぽい」という。
奈良には弁当屋しているMSWがいる。旅行を仕事にしているSWがいる。自分の部屋を利用者に明け渡すホーム長がいる。
なんとかなると雰囲気が、まことに「奈良っぽい」
奈良の将来は明るい。
何しろ、遷都君は底抜けに明るい。
でも、人が沢山来ると奈良のいいところが減ってしまう。
でも、そんなことは心配いらない。
正倉院展に並んでいる人たちは、みな
「奈良っぽい」から。
社会福祉士、それも、一人で活動しているソーシャルワーカーの給料はいくらぐらいか気になる人が多いようです。
今回、岩手、東京、奈良、京都を回ったので、ソーシャルワーカーの収入について書いてみます。あくまで想像です。
次郎さん(仮名)35歳の場合。
成年後見を中心に活動をしている。経験5年余り、地域にかなり知られている。その他にも行政の委員や講演活動等をしている。
収入は月により違い、年収は700万ほど。
五郎さん(仮名)40歳の場合。
成年後見を中心に活動。件数も多くなり、その他の仕事を断っている。関連団体の委員やスーパーバイザーをボランティアで関わり、若手の育成に力を入れている。
年収850万円
八郎さん(仮名)55歳の場合。
企業を中途退職し、社会福祉士、精神保健福祉士、介護福祉士を取る。現場で5年の経験を積み独立した。
ケアマネ、成年後見、行政委員、NPO理事、その他、前職関係の仕事も引き受ける。
年収480万
京子さん(仮名)33歳
福祉職を10年経験後独立。成年後見、NPO活動、ボランティアなどの事業を展開。収入より自分らしくをモットーに仕事をしている。
年収450万。
葉子さん(仮名)50歳
介護の仕事を18年経験後独立。
ケアマネ、成年後見を中心に活動。独立後2年、人生はこれからがモットー。
年収360万。
僕の場合。
ないしょです。
でも、大体こんなものでしょう。
年収は、税込みの事業所収入です。
北山修は著書「劇的な精神分析入門」の中で、「素直になれるか」という文章を書いている。
「内に抱えている素顔の自分、あるいは自然な自分(英語でいうなら‘natural self‘と訳したい)、これを外に向けてどこでどう出すか、あるいは出さないかが、誰にとっても大きな課題だ」と述べている。
私たちは、素直になれる場所が必要だ。それは裸になれる場所だと北山はいう。
たとえば、寝室であり、便所であり、浴室、個室・・・
そこには、誰も立ち入ることができない。
つまり
安心できる場所=素直になれる空間には、孤独がつきまとう。
誰かに居てほしいと感じると同時に、誰もいないことで安心する。
動物であると同時に人間として振舞う私たちにとって、その場所は、動物/人間という役割を交換する場であるとも言える。
苦しいほどの素直さは、感受性の豊かさや才能の大きさでもある。それだけ、大きな孤独を抱えて生きることを要求される。
そんな孤独に打ち勝つために用意されているのが、「楽屋」だという。
人生の舞台に上がるため、また、舞台から降りて化粧を落とすため、楽屋は大きな意味を持つ。
楽屋の団員として北山は苦悩しているように見える。
少し長くなるが引用する。
「「充実」「満足」とともに、人生の目標や価値のひとつに数えられる「幸せ」は「仕合せ」「為合せ」と表記されることがある。その文字通りの意味からも分かるように、「幸せ」の代表的な条件は「うまく合うこと」であり、合うこと、合わせることと合わせてもらうことは幸せになるための条件、努力目標、義務となる。幸せへの努力は、具体的には、待ち合わせ、示し合わせ、申し合わせ、口裏合わせによって行われ、このような「合せる」はふたりの人間の思いを意図的にひとつに組み合わせたり、一致させたりするという意味である。中略。こうして、自分が素直でいられて、それが周囲から受容されるなら、幸せである。」と。
彼らは「出合い」、作品を残した。
その作品に僕らは「出合い」、その力によって、今このとき、幸せを感じることができる。
早稲田奉仕園の横で学生に話をした。
奉仕園にはタイ語を習いに行っていたことがあり、ネパールにボランティアに行く話しがあり、毎週打合せに行っていた時期があり、YMCA同盟に通っていた時期があり、シャプラニールに募金を届けに行ったり、性教協の研修をやったり、想い出がある。
学生は不安が沢山詰まっている。
自分が何者でもないので、ポジションの取り方が分からない。しかし、専門家と呼ばれる人だってそれほど自分が分かっているわけでもない。
毎日、人と会い、話をするうちにそれが仕事になる。
毎日することでできることって一杯ある。
結構込み入った料理も毎日作っていると美味しい味になる。
続けること、止めないことが肝要だと思うよ。
水中バレーをする。
プール横のサブプールで水中バレーをした。
バレーと云っても、足を上げてくるくる回るバレーではない。
ビーチ・ボールを使い、バレーボールを水の中でする。
それが、結構の運動になる。
なにしろ、ずっと動いている。そして、ボールが来るととっさの打ち返す。手だって、いつも上げている。水中からではすぐに打ち返せないから。
4対4で試合をする。
相手はおじさんとおばさん。
そして僕も。
舐めてかかると、相当な体力のあるおじさんとおばさんたちだった。
90分笑ってボールを打っている。
ずっと笑っている。ボールが横にそれては笑う。ボールを打ち損なっては笑う。人の笑顔を見ては笑う。ああ、こんなに笑う人が日本にもまだいたんだと思っては僕も笑う。
なんて愉快なスポーツなんだろう。
こんなに笑顔が溢れるゲームはない。
横のプールで泳いでいるひとはまじめな顔をしている。
そんな顔を見るとおかしくてまた笑う。
そして、勝ったチームは笑いながら、手を繋いでくるくる回る。
負けたチームは、それを見て、また、笑う。
田舎で一人暮らしをしている義母に携帯をプレゼントした。
「そんなもん何にも役に立たないよ」と言われると思いや、意外な言葉が返ってきた。
「前から欲しかったんだよ」
それから、電話での指導が始まった。
携帯に電話を掛けると、
「今、電話が震えているけど、大丈夫だろうか」と、固定電話から電話が掛かってくる。
再度、携帯に電話すると、妹の家の家電がなる。
「震えているから、とにかくボタンを押したんだよ」
翌日
ファックスで、絵入りで、説明をする。
それから、
3回に1回の打率で、受信ができるようになった、イチロウ並みである。たいしたもんだ。
続いて、メールの受信。
これは厄介だ。ボタンを2回、3回と押すことを携帯が要求する。
「電話が何か云っているけど、言う事を聞いたほうがいいかい?」
「まあ、人の云うことはまず聞いたほうがいいですよ」と答えた。
「あなたもね」とは言わなかったので安心する。
それから1ヶ月。
たい焼きの写メールを送る。
返事がない。
翌日、電話があり。
「たい焼き美味しそうだね」と。
これから、毎日、川柳でも送ろうと思っている。
これは、僕の脳細胞の活性化のため。
帰ってきた酔っ払いを聞いたのが小学6年の時。
だから、中学時代はフォークルにはまっていた。
12弦ギターに憧れた。
少年は荒野を目指したが、何処にもいけず、田んぼに横たわりひばりを眺めていた。
冬の田んぼに来るものはいない。
ギターをもっては調子の外れたうたを歌う。
スリーフィンガーを覚えた時は嬉しかった。
高校生の時、ドノバンが来日し、武道館に行った。
その後も、トノバンの振れえる声を聞きながら青年は育った。
ありがとう。
悲しみは言葉にならない 深すぎて
喜びもしみじみと かみしめるもの
ああ あふれる想いを
空の雨に託して
涙声でも 大丈夫
胸を張れ
ため息はつくもの 誰もいない公園で
幸せを逃がさず そっとしのんで
ああ 心の中で
抱きしめたいと つぶやき
花束高く 振ってます
見えますか
ああ 生木を引き裂く
熱い痛みは 殺して
つつしみ深く 涼やかに
凛として
燃えたぎる炎は 明日のばねにして
気持ちはしるしだと そっと差し出す
ひと言 〝おめでとう〟
恩返しはいらない
天気は曇りのちに晴れ
のちに晴れ
ああ 悲しい想いは言葉にならない
深すぎて
天気は曇りのちに晴れ
明日も晴れ
悲しみは言葉に 言葉にならない
作詞 きたやまおさむ
作曲 加藤和彦

坊主もサッカー選手も助産婦も将来の大臣も吹き替えのおばさんもいる飲み会に参加した。
もちろん、仕切るのは坊主。しかし、誰も聞いてない。皆、自分の世界を持っているからぶれない。
どんな世界かって。
新しい世界だよ。
それにしても専門家は話すのが好きだ。
ロジャーズ派のビデオを見た。
理想の私と現実の私にどうやって折り合いをつけるかの話である。
ツールド・千葉の写真がインターネットにアップされた。
理想の私は颯爽と走っているハズであった。
が、現実の私は、ハアハアあえいで、肉もだぶついている。
こんなはずではないと、理想の私は言うが、現実の私は「こんなものでしょう」と諭す。
そういえば、クライエントはシンシアだった。
「シンシアといえば、南沙織でしょ」というと、現実のみんながぽかんとした顔をしていた。
木曜日は大学にいます。
死と生の授業が3こま。
なぜか泣いています。
白井先生は、「困難に打ち勝つと強くなれる」と言います。
打ち負かされそうです。
負けるのも人生脚本の一つでしょう。負けることが好きなのではなく、負けそうな私が好きなのだと思います。
今日も宿題が出ました。
245キロ走った翌日は、ケアマネ120人に8時間の講義。
自転車なら、時速20キロ平均でも160キロ走ったことになる。これは、相当な距離だ。
午後になると、軽いめまい感じながら、かなりのハイテンションで乗り切った。
今朝は、やはり、5時に目が覚めた。
寝ぼけ眼で着替え、なぜかストレッチしていた。
講義の途中でもストレッチした。
参加者から、「椅子に座って喋ったらどうですか」と言われたが、座ると寝そうで、「大丈夫です」と返事をした。
話は如何でした?

抽選でヘルメットが当たった。
じゃんけん大会でヘルメットがあたった。
僕も前の人は、勝ったにも関わらず、ユニホームを選ぶ。
翌日、これを被って一日走ってやっとその人の気持ちが分かった。
何しろ重く、上を見上げると首が痛くなった。
一人暮らしの老人が夫との思いでもあり、部屋に花を飾っていた。
(障害もあり自分ではできないので)花の水を替えたいとヘルパーに頼んだところ、「介護保険外のことなのでできません」と言われ、事業所からも「叱られた」と、新聞の投稿にあった。
介護保険で適応される仕事とは何だろう。
日常の買い物は(プランに入っていれば)保険が適応される。
しかし、買うものが日常以外のものなら、「介護保険以外のことなのでできません」と言われる。
では、日常と日常以外の仕事の境は明確になっているのだろうか?
もちろん、何処までか分かっている事業者やヘルパーはいない。
生活の支援という場合、生活とは何だろう。
このヘルパーにとって生活は、ある「枠」の中で生きることだったと想像されが、目の前の人の生活までは想像できなかった。
つまり、イメージの貧困と専門性の欠如が課題であった。
その人の生活をイメージできれば、課題を解決することができるかもしれない。
この場合、「介護保険外のこと」という枠で考えるのであれば、「自費」でできる。
マクドナルドが「スマイルを0円で売るように、水替えを0円でやることも出来る。
その場合、水を替えることが目も前の人の生活にとって「必要であり重要な行為」だというアセスメントが必要であり、それを見立てる専門性がいる。
厚労省も、一律に介護保険を制限している訳ではないといい、その解釈は専門的な判断に委ねると説明している。
さらに、この人の気持ちは、「花の水替え」で解決できるものでないことは想像できる。
心のすき間を埋めるためのプランが必要であり、ケアマネジャーの出番だといえる。
来週ケアマネ研修の講師を予定しているので、この話をしたい。
さて、一番大事なものの発表は台風のために1週間先の延びた。
人生で一番大切な人は誰か。
一番大事な時間はいつか。
そして、何をすることが一番大事か。
という悩みを抱いた王様の話がある。
その物語は、星の王子さまとキツネとの友情の話に似ている。
つまりは、今、私の隣に居る人に、その人が望んでいることをするという摂理が述べられている。
では、価値としては、人か、時か、行為か、どれを一番とするか。
ここで一番にこだわると答えが出なくなる。
つまり、その3つは、3つで一つだと考える。
一番が、一つだとは限らない。
キツネとの生活は、3日だったかも知れないし、3年かもしれない。しかし、思い出としては、心に一生残っていることには変わりない。
だらか、(キツネは)金色に輝く麦の穂を見ると涙が出る。
フランツは、「キツネが王子さまに教えたのは、いま、ここにある現在を大切にすること、そして感情の価値を認めること」だといっている。
草むらに入って、大好きな人を見ている時ほど、幸せな時間はない。
※M/Lフォン・フランツ「永遠の少年」
夢や願いは大きいものがいいと信じられている。(たぶん)
でも、叶わない夢より。小さく叶いそうな願いの方が楽しい気がする。
その割合が、概ね50:50くらいがいい。
どっちになるのかワクワクする。
少しの努力で叶いそうだ。
だから、すこしがんばってみる。
勇気を出してみる。
そして、実現すると、すこし嬉しくなる。
大喜びはしない。
小さなガッツポーズをはにかみながらするくらい。
または、
お昼に、お祝いとしてデザートを食べる。
今日は昼に、あんみつを食べた。
プールに行った。
天井から空が見えた。
空は黒かった。
水の中に潜り、空気と水中の境を上がったり沈んだりした。人間が進化する瞬間のような気分になり、プハーと息を吐いた。
今日は葬儀があった。
人は、この世から何処に行くのだろう。
教会の前から3番目の椅子に座っていた。
僕の右後ろに、視線の端のところに、人の気配を感じた。
ああ、後ろからじっと見られている。
もうそんなところにいるのですね。
もたいまさこがいい。
もちろん、小林聡美も。
誰一人、昨日の私を変えようとしない。そこが凄い。
ドラマは、チェンマイで起きているのではなく、僕たちの住む世界で起きている。
プールとは何だろう。
水は空を映し、空には、願いが浮かんでいる。その向こうには「無」が待っている。
人間が生まれ変わって犬や猫や豚になるとしたら、その生き物を大切にする気持ちも分かる。この豚の子どもが、自分かも知れない。
そういえば、声が似ているとか、顔が似ているとか。
たぶん、このプールには誰も入らないのだろう。しかし、ココになければならないのだろう。そんな大きな無駄がある国のビールは上手かった。ソムタムも。
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