科学的である、あるいは、エビデンスがあることが正しいと言われるようになったが、果たしてそうだろうか?
今「野の医者は笑う」誠信書房・東畑開人が書いた、沖縄の在野の医者?が行っている治療?の本を読んでいる。
医者?治療?にクエッションがついているのは、今日的には、それって医者なの?それを治療と言えるの?と思われるからである。
しかし、その怪しい医者があるいは、ヒーラーが行う、怪しい治療もどきで、患者が「治っている」のである。
またまた、難しい概念が登場した。「治る」である。
西欧医療以外にも、東洋医療というのもがある。漢方や気功、ヨガやアーユルベーダーなどなどである。
これらの土着の治療により、症状が「治る」「軽くなる」ことがある。
漢方まではついていけた僕が、気功ができるという女性に「やってもらった」ことがある。気功を。そしたら肩のだるさが「治った」。それは実感として「治った」と感じるものであるり、その後数ヶ月その感覚は続いた。
また、あるワークショップで、頭の重さと対峙するワークを行い、指導者の言う通りにセッションすると、首が回らない状態がすっかり回るように「治った」ことがある。この経験は、その後、自分でも痛みのコントロールができるようになった。
しかし、どうして「治る」のかは解らない。多分。
西洋医学が行っている医療だって分からない部分が沢山ある。それでも、目に見える統計的な傾向をエビデンスだと言っている。
東洋医学が土着の医療を凌駕したのには理由があるのではないかと思う。
それは、人々の生き方が変わったのではないか、人生に対する向き合い方が変わったのでないか、あるいは、経済が人間の生き方に口をはなむようになったのではないか。
特に、資本主義的な成長の思想が大きく関わっているように思う。
成長、進歩、変革ということが求められ、人生を少しでも長く豊かにするためには、効率的に長く生きる人間を作ろうとしてきた。
それは、医療だけでなく、経済も組織も同様である。
これは流れは精神世界、心の世界にも浸透してきた。
しかし、沖縄という島には、外地の力が及ばない世界が残っていた。沖縄が経済的に恵まれなかったという歴史が影響しているとも感じる。
精神世界、または、その人の心の内側の世界に「正しさ」はない。エビデンスも成果もない。あるのは、ぼんやりとした雲のようなものだと思う。これは、僕のイメージだけどね。
それだけに、「治った」と思えば、「治った」のである。
この辺から、ソーシャルワークが取り扱う問題を考えてみよう。
ソーシャルワークが取り扱う問題は、社会の問題とその社会と向き合う個人の問題である。
まず、社会の問題から。
社会は、個人の集合として存在している。
つまり、個人も社会であるということになる。
そして、ソーシャルワーカーが関わることができるのは、個人だけである。その個人から社会を捉え、その個人と社会の関係を構築することが行われる。
アプローチは一つではない。ソーシャルワーカーが違えば、アプローチは違う。また、クライエントのありようが変わればアプローチが変わる。
つまり、社会に向き合う方法はどれでもいいし、なんでもいい。向き合わない生き方もある。
では、ソーシャルワーカーは何をしているのか。「ソーシャルワークすること」をしている。
科学的である場合も、非科学的である場合も、グループの力動を活用するときも、個人の内面にアプローチするときも、組織のシステムへ働きかける時も、スピリチアルである場合も、「ソーシャルワーク」することをしている。
ソーシャルワークするってなに。
それを科学的に説明することは僕には難しいので、また次回。
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