2020年9月11日 (金曜日)

パラレルチャート

「2階へ上げて」

 

彼女は、僕の顔を見るなり「2階へ上げてって言ってるでしょ」と叫んだ。僕が、対応した女性の上司だと思ったのだろうか?

 その日、高齢者支援センターの仕事も終わり、帰ろうかと書類を整理していたら電話がなった。3時過ぎに出かけたワーカーからだった。

「大変なんです、すぐ来てください」と、彼女は焦った声で呼びかける。

 秋の気配を感じ始めた頃だが、まだ日差しは厳しい。こんもりした森の中に、その家はあった。玄関には、救急車が止まり、救急隊員が出入りしている。その横を通り、家に中に入っていく。

 隊員が「もう待てません。すぐに救急車に乗らないのなら帰りますよ」と気色ばんでいる。話を聞くと、姉の具合が悪く、妹が救急車を呼んだ。救急隊が到着したが、どうしても入院は嫌だという姉を説得してもらおうと、支援センターにも電話し、センターのスタッフも呼ばれたらしい。それから2時間が過ぎた。

 姉妹は、それぞれ80歳前後だろうか。姉は、身体を90度に曲げ苦しそうに階段の下でうずくまっている。顔色は悪く、衰弱している様子があり、熱中症も疑われる。下肢に浮腫があり歩行は困難であることはすぐにわかる。

「これ以上ここにいるわけにも行かないんですよ」と、救急隊は引き揚げる準備をしていた。そこに僕が現れたのだ。

「2階に上げてください」絞り出すような声が聞こえる。下を向いているのでどこからその声が聞こえるのか初めわからなかった。妹は、黙っている。姉のいうことには逆らえないという表情である。

 スタッフから経過を聞き、本人に、今すぐに処置をしないと命が危ない状況であること。そして、なぜ病院に行きたくないのかと問う。

「病院や役所は信用できねー」と、また、絞り出すような声で答える。

そして「2階に上げてください」を繰り返すばかりである。

僕は、帰りかけた救急隊員に、とりあえず階段の下から2階の踊り場へ上げてもらうように頼んだ。

 救急隊も帰り、若いスタッフを支援センターに返し、家には、妹と姉と僕の3人、急に静かになった。「**さん、まだまだ暑いね。何か飲むかい?」と振ってみる。すると「ここは私の家だよ、何言ってるんだい」と応える。それから、家の周りの商店街の店主の話や、どんな映画が好きなのかなどなど、雑談をした。僕が大事だと思う「病院にいきましょう」という話は、全く無視をする。

**さんは、芝居や音楽に精通し、かなり文化的な生活をしてきた口ぶりである。戦後、仕事をしながら妹と二人で楽しく暮らしてきたのだろう。2階の踊り場からは、和室が見える。しかし、戸が閉まっているので、生活用具が散らばっていることしか分からない。その暗がり中に、大きな和箪笥と鏡台が見えた。

「ここで、ずっと暮らしてきたんですね。階段を降りたら上がれなくなったんですね」と、僕が独り言を言っているうちに寝てしまった。

 

翌日、**さんの家に往診医を連れて行った。妹が食事を運んでいる様子があった。**さんも怒ったが、医師もすごく怒った。

「こんなになるまで放っておいて、どうすることもできない。すぐに救急車を呼びなさい」といい、帰ってしまった。また振り出しである。

**さんは、「だから言っただろ」という顔をしている。それから医者は信用できないと言う話がしばらく続き、「このまま、ここで死にたいね」と本気とも冗談とも取れる口ぶりでいう。僕もその話を聞くうち、それもいいのかもしれないと考えるようになっていた。

 

それから3日が過ぎ。スタッフから「**さんが亡くなった。今朝、妹が様子を見に行ったら、意識がなかった。妹が救急車を呼び病院に着く前に亡くなったらしい」と報告を受けた。

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2020年8月24日 (月曜日)

唇を読む

マスクをしていると口元が見えない。

マクスを外せる場所では会話ができない。

そこで、離れて、唇の動きを読みながら会話を楽しんでいる人がいた。

仲のいい友達なのか、唇を読みながら笑っていた。

しかし、話が込み入ってくると、動きが止まり、近づいてきて

「いま、なんて言ったの」と大きな声を出した。

今まで黙っていた分、音量の調整ができなかったようで、周りの人が一斉に振り返った。

 

中学生のとき、好きな女子が他のクラスにいた。

仲良くなり、毎日でも話をしたいと思うようになった。

しかし、恥ずかしがり屋の中学生は、「今日はひま」なんて他所のクラスに行って、女子に話しかけられない。

そこで、「今日はひまか」というサインを作ることにした。

 

中学生は、暇である。色々と策を考える。

いいアイディアが浮かんだ。

下駄箱の「靴のかかとを踏んであった時は、放課後の教室でおしゃべりしよう」というサインを決めた。

彼女も同意した。

翌日、ウキウキしながら朝の下駄箱に向かった。

彼女の下駄箱には、すでに靴がきちんと揃えて置かれていた。

靴のかかとは踏まれていたが、それは半分だけだった。

 

その日は、授業中、モヤモヤが止まらなかった。

 

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2020年8月14日 (金曜日)

児童養護 困難な状態にあるのは子どもか?親か?

社会的養護という概念がある。

児童養護施設のような機関で子どもを養護する場合に使われる。

子どもは養護(あるいは擁護)される対象として扱われる。

子どもは社会的に守られる存在として認識される。

親の養護が不十分である場合、施設養護が社会的機能として、子どもの権利を守るシステムである。

では、多くの場合、子どもを家庭から分離する。

子どもが課題を抱えているのではなく、親が課題を抱えているのにどうして子どもを分離するのだろう?

そのほうが、現実的だからである。

しかし、子どもの分離では問題の本質を変えることはできない。

これまで社会の問題として認知することなく、養護問題の解決手段として養護施設が機能しているだけである。

本来は、子どもを養護できない親の教育、指導、法的制裁などが必要である。

こうした方向性、社会的なコンセンサスが作れないことろに日本の養護問題の本質があるように感じる。

家庭に問題があるのなら、家庭に介入すべきである。

しかし、家庭に介入する法律がない。法律がないというより、家庭を支援するための社会的理念が存在しないことがこの問題を曖昧に扱ってきた。

(養護施設というシステムを作ったことで、そのシステムを維持することを中心に問題を捉えてきた)

親が問題であるのなら、親の支援、教育をすべきである。

しかし、親が子どもの権利を守るべき法律はない。

親権は、子どもの監督権に重きを置いている。

虐待に対しても、子どもを分離することで子どもの権利を守ろうとするが、親を再教育するためのシステムがない。

虐待した親が施設に入り、再教育をうけるべきではないだろうか。

価値観の転換が必要な時期が来ていると感じる。

残された子どもがどう生きるかは、子どもたちが決めるべきである。

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人に会わないことによる影響

障がいを持つ人は、人とのコミュニケーションにより、弱っている機能を維持する働きがある。

毎日の会話、人の表情を観察する、気を遣うなど、当たり前のことが無くなってみると、その代償は大きい。

手話を使う人にとってもそれは同様である。

コミュニケーションは、私たちが考えている以上に多様な資源を活用している。

毎日家にいてホームヘルプサービスだけ受けれいるA子さんも同様に影響を受けている。

ヘルパーさんとして同じ人が同じように来て、サービスを受ける。

どこが変わるのか?

ヘルパーさんの様子が違う。ヘルパーさんから社会を感じ取り、A子さんに影響を与える。

僕らは、すべてつながっている。

地球の裏で起きていることが、僕らの日常に影響を与えている。

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2020年8月11日 (火曜日)

SV5 縦横のコミュニケーション

SVがスーパバイジーと管理層との中間に位置する場合(こうした立場にあることが多い)、上へのCOと下へのコミュニケーションが生まれる。

この上下は方向性を指す。

管理層へのコミュニケーションにはバイアスがかかりやすく、バイジーへのコミュニケーションは拡声(誇張される)されやすい。

とかく経営層には受け入れられやすい情報を流す傾向となり、耳障りの良い情報を伝えてしまう。

組織内では、縦方向のコミュニケーションが多くなりやすいが、横方向、つまりSV同士の、横組織のコミュニケーションも重要である。

例えば、独立しているソーシャルワーカーの場合は、上下関係や利益関係のない横のコミュニケーションが多くなる。

しかし、双方が自立した関係にあっても情報や立場が平等というわけにはいかない。

SVとして独立している「仲間」同士であっても、立場、役職、社会的地位が違うことで、力関係が生まれる。

そうすると、コミュニケーションにも上下関係ができてくる。

組織同士のコミュニケーションは自在性、自発性、自由さが相互関係を成熟させるのであるが、上下関係がそ組織間で送る場合には、ドロドロした状況が生まれてしまう。

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2020年8月10日 (月曜日)

ネットSVは有効か?

オンライでSVを行なっている。

SVのような人と人との機微に触れるようなことは生でないとねと考えてきたが、結構いい感じで終了する。

これは、声と映像が影響していると感じる。

そこにいることの大切さは、同時性が大きく作用している。

あなたと私は同じ時間を共有している、あなたの隣で同じ空気を吸っているという気分は相互感情に意味を与える。

だから、ネットではダメなのかといえば、

そうでもない。

実際の距離があるのに、近くにいる感覚を持てる。

これは、不思議な感情だ。

例えば声だ。音声としての情報だけを頼りに相手を理解しようとする。

これは、テレビよりラジオの方が集中できるのと似ている。

情報が、限定され、タイムラグがあり、途切れるのにもかかわらず。

これは、相手の話を聴きながら自由に考える時間ができるからだろうか?話をする側も、話をしながら、目の前に誰もいないので自由に想像することができるからだろうか。

この辺はネットSVを重ねることで、感情の変化を観察したい。

視覚情報も限定される。

顔のアップを見ている。小さな動きが気になる。表情の変化がよくわかる。

良い感じを持っているのか、嫌な気分なのかわかるような気がする。

での、全体が見えない。全体が聞こえない。

見ているようで、聞いているようで、それは事実なのか?本当なのか?

これは、バーチャルな状況なのだろうか。

良い感じだという小さな情動に麻痺されているのか。

その辺がまだわからない。

 

 

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zoom会議

Zoom会議をした。

グループでの会議では、決められた時間が終了するとプツと強制終了させられる。

コミュニケーションにとって、突然止まることはよくない、やってはいけないことだと考えられていた。

しかし、ネット会議をしてみるとそうでもないと感じる。

会議は構造化されており、中でも時間の管理は大切な概念である。

しかし、これが守れない人や、参加者が多い。

特に、グループ会議では、力関係があり、途中で話をきれない、最後まで言いたい、話をしていない人にもチャンスを与えたいなど、時間管理よりもグループの雰囲気に押され時間を超過することが多い。

そうした人間的な感情は、機械には全く通じない。

通じないことは悲しいが、悪いことばかりではない。

話の途中でプツ(音はしないが)と切れても、「しょうがないじゃん」という気分になる。

この諦めにより。会議の時間構造が決まるので、進行しやすいという面がある。

「はい、これまで」、「では次」というコとになる。

 

 

 

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2020年8月 4日 (火曜日)

スーパービジョン イン ソーシャルワーク④

管理的コミュニケーション

このような概念があることに驚く。

機関間の(あるいは組織内の)コミュニケーションを言っていると解釈する。

SVは、組織の上部者である管理層と下部機構であるスタッフをつなぐ機能が期待されている。特に、「業務そのものが曖昧で、業務手順を明確に明示することが難しい」専門職の場合には、スーパーバイザーが調整に向けたコミュニケーション機能を発揮することが求められる。

後見業務などは、まさに業務に手順が一人一人違い、曖昧な部分が多い。

つまり、クライエントである被後見人等とワーカーである後見人の間に立ち、相互理解を進めるSVが必要ということだろう。

特に相互のメッセージが伝わりにくい関係、解釈に揺れが生じ、言語的表現が難しい状況、その人の人生観を掴みにくいなど、曖昧性を多くもつ関係が後見人と被後見人との関係だと思われる。

また、小さな組織であっても外部機関との調整は必要であり、一人事務所であってもSVの必要性は高い。

むしろ、一人事務所の方が、SV機能が求められる。

それは、揺れや、揺らぎを調整する人がいないからである。

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2020年8月 3日 (月曜日)

スーパービジョン イン ソーシャルワーク その3 業務の調整

スーパーバイザーの業務として、関係者、関係機関との調整業務がある。

SVは、クライエントのシステムに対しても働きかけるということだろう。

「直接支援サービスを提供する者たちの業務を促進させるために、彼らを支える資源の活性化に努める」(P71)ことがスーパーバイザーの業務の一つであり、サービスに関する「権限」を持つ者に対する「支持』、促し、側面的支援、「補完的」関係を築くことが求められる。

スーパーバイザーは「多数の異なるスタッフの活動を組織化し、調整する」ことで、支援組織の目標達成に貢献できる。

SVの管理機能として、組織内の関係強化、スタッフ間の調整、責任の明確化、機能の調整まで含まれるという概念がある。

 

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2020年7月29日 (水曜日)

SV IN SW その2

管理的SVは、組織における採用と業務の分掌からはじまる。

一人会社、一人組織である僕の場合。

一人で開業しているSWでも同様である。

誰が、誰に行うのか?

通常は、一人二役で行うことになるが、時々外部のSVにお願いする。

業務を分ける。

組織の業務は、沢山のスタッフがいても一人でも、行う内容はそれほど違わない。

一人で行う場合の課題は、どのような業務があるのかを分類しないまま、日常の業務遂行の中で

組織を回してしまうことにある。

そして、時々、失敗する。

小さな事務所であっても、自分にできないことは業務を委託することが必要である。

むしろ、積極的に役割を振り、業務を振り分けることができる力が必要だとも思う。

また、管理的な業務には専用のソフトの導入。外部の専門家のチェックなど、組織としての機能を高めることも

大切になる。

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スーパービジョンイン ソーシャルワークを読む

1章を飛ばし2章から

これは、勝手な解釈でありますことをお断りします。

職務として、スーパービジョン(SV)の説明を行う。

スーパーバイジーに対して、SVの基本ルール、双方の役割、責任を説明する。

ソーシャルワーク(SW)実戦は、「法律で規定されて」いる。

SWは、実践の方法ではあると同時に、法的な枠組みを持つということだろう。

これは、日本のSWのあり方に大きな意味を与えている思想だと感じる。つまり、SWは、クライエントのために実施する方法論であると同時に、法的に定められた枠組を持つ。それは、SWno倫理規定に定められた理念であり、憲法の思想である。

成年後見事業の展開で忘れがちな視点もここにあるように感じる。

日々の業務の判断根拠がどこにあるのか。

もちろん、それは、法律にある。

しかし、法的な枠組みを意識した実践は、ほとんどできていない。

僕の場合ね。

 

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2020年7月21日 (火曜日)

そのままでいることの難しさ

そのままでいることを大切にしているなんていっているが、これがすこぶるむずかしい。

頭の柔らかさは、年齢に関係ないだろうが、それでも柔軟に対応できないもどかしさを感じることが多くなった。

面接は、結果を重視することより、プロセスが大事だと思いつつ、どうしても自分のペースを守ろうとする。したがって、クライエントの不満が高くなる。

それに気づかず、うまくいったと独りよがりになってしまう。

 

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2020年5月25日 (月曜日)

無になる

河合隼雄は、その対象者との関係を個人的関係ではなく、非個人的関係と位置付けいている。

個人的関係とは、関係する相手(社会や地域、仲間、他人と言ってもいいだろう)との関係を結びながらも、個人的な関係を結ばないとする。

特に、援助関係においては、被援助者に同調、共感することを期待されることもあり、共依存関係になりがちである。

しかし、援助はしても個人的にではなく、専門的に関わること、あるいは、関わらない関係が重要である。

 

ウィルスが蔓延する社会で家に閉じこもるということは、社会と隔絶するようでいて、ネットを通じて強く社会と関係を持ちつつある。スマホとう機械は、つなげつことを目的とし、繋がることを期待させる。

繋がることは、不安を軽減させる機能を持つと同時に、繋がることで大きな負担を強いる。

情報が溢れる社会では、情報を選択することが重要である。

選択するためには、選択しないという選択が、あるいは、何も受け取らないという方法も重要である。

入れることばかり考えず、無になることで心の平安がやってくる。

 

 

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2020年5月 9日 (土曜日)

その人は何も頼まない

僕のようにすぐにお願いをする人がいる一方、誰にも何も頼まない人がいる。

彼女は、独立心が高いとか、孤立しているわけではない。

自分の世界を持ち、洋服のセンスもいい。

着るのに勇気が必要な派手な服だって自分のものとして自然に着こなすことだってできる。

 

でも、何年も一緒に暮らしていても、何かを頼まれた記憶がない。

これは、僕が頼りにならないとか、頼んでもどうにもならないということである。

そのことの自覚はあるが、それだけではないような気がする。

 

何か秘密があるのかもしれない。

僕がいない時間に何かが起こっているのかもしれない。

もっと、頼りになる人がいるのだろうか?

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2020年5月 5日 (火曜日)

青、緑、深緑

天気が悪く、雨が落ちてきそう。

風が若葉を揺らすので、緑が抜けて飛び散り、とても綺麗だ。

 

留まっていることで、見えてくるものもある、と

思えるくらいに自粛生活が続く。

 

木は、黙っている。

それでいて、一日経つと昨日までの記憶を失っている。

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2020年4月26日 (日曜日)

だらだらとしてる

どこにも行かずだらだらとしている。

時々、本を読みすぐにあき、映画を見て、ウクレレを練習し、散歩に出る。

同じペースで暮らすことの難しさを感じる。

そんなに変化の多い生活ではなかったはずなのに、見えない力で抑制されているような気分は辛い。

こんな気持ちを世界中の人が感じているのだろう。

30年ぐらい前にタイに交換研修に行った時の気分を思い出す。

研修といっても、何をするわけでもない、何をしろと命令する人もいない。

言葉もよくわからない、土地勘もない。

カンチャナブリの子どもの施設に行った。

数日はすることがあった。しかし、それもなくなった。

することがない、話す人がいないという環境は苦痛である。

贅沢な苦痛かもしれないが、結構精神的に堪える。

そんな時、学校の授業を受けている子どもたちの姿をゴロゴロしながら覗いていた。

観察しながら、色々と解釈し、楽しみを見つけ出す。

つまり、動き出す。

止まっていることはできないようだ。

無人島に漂着する物語がよくある。先日もトムハンクスの映画を見た。

彼は、生きるために様々な行動をする。

その中で、一番の苦痛は、それを見てくれる人がいないことだ。

僕らは、見てくれる人ー僕らの存在を認知してくれる人が必要だ。

それがなければ、人の動きを、生活を見ることがそれに代わる。

エスキモーの楽しみは、小さな家の中で、子どもを見ることだ。

だたみている。すると子どもが自由に動き、声を出す。

それを見ることが娯楽になる。

動くものがない社会は拷問である。

 

 

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2020年4月16日 (木曜日)

無題

子どもの虐待やDVなどの被害が出ている。

また、コロナ離婚など、人間関係が変わる事例が報告されている。

これは、新型コロナウィルスにより家庭に引き籠ることの問題ではない。

もともと潜在化していた問題が顕在化しただけである。

特に、弱い立場の人たちが攻撃の対象になっている。

日本社会の歪みを隠すようにインバウンドだオリンピックだと浮かれていたが、それは強い人たちの理論である。

何か大きな動きを起こすとは、その影で、小さな物(者)を犠牲にしている。

自由主義社会にあって格差が生まれるのは当然である。

格差の調整機能として、福祉政策や保険制度など、社会制度が作られてきた。

これらは、バランスの取り方を重視する考えであり、下流階級の不満を押さえるためのシステムである。

その理念は、競争社会を良しとする考えだ。

一方で、福祉国家と呼ばれる理念がある。

この考えは、バランスで社会をコントロールするのではなく、人間を中心に置く理念が優先される。

それは、強いものが弱い物を助けるという考えから、弱いものが生きやすい社会を基本にするという理念である。

ウィルスを制御するためには、外出しないという方法しかない。

それが分かっているのに社会機能を維持しようとする考えは、バランス型の方策である。

これで助かるのは、強い人たち(経済的にも身体的にも)だ。

今問われているのは、あなたはどの立場に立つかという選択である。

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2020年4月15日 (水曜日)

表現の不自由な国、ニッポン

日本は、映画、演劇、音楽などの芸術と呼ばれるものに予算をつけない国だと言われる。

平田オリザさんは、「芸術文化は社会インフラ」だという。芸術は公共物であり、電車や車が社会を円滑に動かすように、芸術は人間に流れる血を沸き立たせる。

そう感じている国会議や官僚が少ないのか、競争社会にとって芸術は無駄だと感じているのかはわからない。ただ言えることは、芸術にかける予算の少なさだ。

しかし、芸術がなくなってしまった時、その大きさに気づくのかもしれない。

「華氏451」というトリフォーの映画がある。読書が禁じられた未来社会を描き、書物を燃やすシーンがある。

人々は、取締官に隠れ本を読む。読書がどんなに大切か、人間らしく生きるためには死を覚悟してまで本を読む。

演劇やコンサートは、今、その時だけの感動を与えてくれる。

それは、計算されたものではなく、予想を遥かに超える喜びを与えてくれる。

この国の為政者が市民の気持ちを分からないのは、想像力がないからだろう。

自由は守るべきものであり、それなりの犠牲(おかね)をかける価値はある。

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マスクはある

マスクがないと言っているるが、マスクはある。

それは、持っていない人と、持っている人の格差である。

多く持つ人と、持たざる人がいる。

これは、社会の格差と同じようなことだ。

多く持つ人が、持たざる人にその半分を差し出すだけで、マスクは行き渡るだろう。

しかし、多くも持つ人は、もっと持つために資本を投資する。

そんなに持たなくてもいいと感じるのは、僕が持っていない方の側にいるからだろう。

そういう僕も、贅肉をたっぷりと持っている。

この肉も世界の格差からいえば、余計なものである。

だって、食べられない子どもはたくさんいるのだから。

グルーバルトいうものの、負の面が強調される。

しかし、それはウィルスが出現する前から、確かに世界に存在していた。

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2020年4月 5日 (日曜日)

コロナ後の世界

コロナ禍は当分続いてゆくだろう。

そして、かなりの傷を世界に与えるだろう。

その後に来る世界を悲観する声が聞かれるが、果たしてそうだろうか。

現状の世界のあり方がかなり問題と感じている学者も多く、その修正の時代が来ると予測する。

資本主義の歪みを作りながら一部の人が、大多数の人をコントロールする社会。まさしく日本の姿だが。

その社会を変えることは、政治家や官僚にはできない。

そのことを嫌というほど知らせれる事件が続いているのに。

 

そう考えると、問題はコロナではない。

むしろ、人間の方だと、コロナは言う。

 

コロナが過ぎ去った世界を人間がどう再生させるのかが問われている。

 

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2020年4月 2日 (木曜日)

行動を起こすことがトラブルの元になる

国境離島警備は必要か?

それは難しい問題である。

そこで、必要性より、微妙な力関係の所に、力を注ぐことの無意味さを感じる。

これまでの失敗体験から、個人的な、言えることは、余計なことをしてうまくいった試しがないということ。

 

現状でバランスを取れているもののバランスを崩す行為はやめたほうがいい。

もしも、攻撃されたらどうするの?

とか、もしものことを考える人が多いが、その時はその時に考えればいい。

そもそも、何が起きるのか分からないのが世の中で、それはコロナウィスルを見ればわかるようなもの。

 

守ることの最大の方法は、武力ではなく、無抵抗だとガンジーは言っていたよね。

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2020年3月30日 (月曜日)

哲学の現在

哲学者中村裕次郎氏曰く、生きることは考えることである。

人間として生まれてきたからには、その生涯を生きなければならない。

生涯とは、生まれてそして死ぬまでの間のことだろう。

 

その間に、どんな障碍が起きようとも、乗り越えられないと感じる出来事が起きようとも、それを悦びに変えることが「よく生きる」ことだという。

悦びに変えるとき、考えるのだろか。

中村先生は、そうだというが、それでいて、考えることの中に陰鬱感が伴うという。

コロナのことを考えると鬱々した気分になるようなことだろうか。

 

また、考えることと生きること(活動)は同時並行的に進むという。

 

考えることで、行うことができるが、考えすぎることで動けなくなることもある。

また、毎日の活動を繰り返すことが思想になることもある。

 

この時代の気分に浸りすぎると、鬱々した気分に陥る。

時代の空気を吸いながら、毎日同じように、生きる(活動する)ことが重要なのかもしれない。

イチロウがルーティーンをするように。

右足から、前に進んでみよう。

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首の振り方を練習している

インドやネパールの人と話をしていると、首を横に振り、挨拶やうなずきのような表現をする。

ゆっくりやれば簡単だが、早くふると力が入り、肩まで動いてしまう。

結構難しい。

インド映画を見ながら、リラックスして首を振る練習をする。

これが、結構、肩こりにキク。

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2020年3月28日 (土曜日)

ブランカとギター弾き

見終わって幸せを感じる映画だった。

フィリピンのスラムに暮らす少女と盲目のギター弾きの話。

歌の上手い少女は、見空ひばりの少女時代の映画を思い出させる。

 

スラムに住む子ども、売春婦、LGBTの人たち、障害者など、社会の底辺に暮らす人たちを

描いている。

それでいて、皆が連帯して生きている。

この辺の描き方が素敵だ。

貧しいことを否定していない。

貧しい人の力をテーマにしているような作品だ。

 

ものを持つことが自由になるということは幻想なのかもしれない。

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2020年3月26日 (木曜日)

影響の低さを喜ぶ

ブログを再開して2週間ほど過ぎた。

心境の変化があった。

どんな変化があったのかを知りたい人も少ないだろう。

閲覧数の数、一桁から想像して。

 

影響の低さ、閲覧数の少なさは悪いことではない。

これは、日記である。

日記を他人が見られるだけであり、個人的な思いを綴っているに過ぎない。

そして、オープンであるということで、自己規制をしている。

 

その1、個人が特定されるような記事を書かない。

その2、気分が暗くなるような記事を書かない。

ということである。

また、内容も事実であるような、それでいて、事実でないような

曖昧なものである。

 

読まれても誰にも迷惑がかからないようなもの。

存在しているのに、存在していないようなものを目指している。

 

そういう点では、合格である。

 

 

 

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車で待つ

クライエントと車の中で、病院の順番を待つ。

メールで順番を知らせていただくサービスを利用している。

病院の待合室は、混んでいるので、ゆっくり桜を見ながらお茶を飲んで待っている。

 

色々な話ができる。

何となく過ごすこの時間がとても大切だ。

 

5年も6年も付き合っていると、早々、こんなことがあったね、とか、

あんな人がいたねと、小さな話題で盛り上がる。

 

 

 

 

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2020年3月24日 (火曜日)

みんな、怖いと感じている

小学6年生のアキラくんは最近食欲がない。

どうしたのと聞くと、「なんとなく」と答える。

じっと待っていると、何だか怖いという。

何が怖いのだろう。

 

怖いと言葉にすることで、次々に喋り始めた。

友達と居ても、ゲームをしていても、テレビを見ていても

なんか気が散ってしまう。

自分がそこにいないような気がする。

世界がボクを見捨てるような怖さを感じる。

 

それは、コロナのこと。

そうかもしれない。

おじさんもすごくこわい。

ブルブル震えている。

泣きたいような気分になる。

落ち込んで、ボーとすると話す。

 

みんなが同じような恐怖を感じているのに、どこか

世界が知らん顔して回っている恐怖をアキラくんは感じている。

 

それから、しばらく、アキラくんの好きなキャラクターの話を聞いた。

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2020年3月21日 (土曜日)

こんな時には東海林さだお

東海林さんを読んでいる。

イヤー、時代にマッチしている。

読みやすい。

楽しい。

安らぐ。

幸せな昭和を感じる。

 

昭和が幸せであったかどうかは問題ではない。

過ぎたことをモッテいるだけである。

 

それでいい。

さだおさんは、観察が鋭い。

そう、そうと思うような描写がすごい。

 

こんなおじさんが世の中にいるのかと思う。

よく考えたら鏡の中にいた。

 

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マスクが届く

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凄い時代になった。

僕の家にもマスクが二つ届いた。

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曖昧さに耐える

オープンダイアローグの理論の中に、「曖昧さに耐える」という概念がある。

最近の報道を見ると、「はっきりさせる」ことが良いことだという風潮を感じる。

 

報道を見る人の不安を高め、注目を集めたいのだろうか。

 

不安とは、「はっきりさせる」ことでは、解決しない。

特に、現代のような情報の多い時代にはなおさらである。

 

「そうです」と言われると、「違う」のではないかと別の意見を探したくなる。

だって、多くの情報が飛び回っているのだから。

 

だから、分からないことを「分からないまま」にする「曖昧さ」に耐える

ことが必要になる。

 

これは、結構難しい。

曖昧さに耐えるとは、耐えられそうにない状態をあえて耐えるという

意思を感じさせる言葉である。

 

グラグラするボールの上で揺れながらその状態を楽しむような気分だろうか。

 

 

 

 

 

 

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認知症 預金をおろしたいけど

朝日の記事から。

認知症の人が預金を下ろせなくなり困っているという記事。

この記事で、最大の間違いは、認知症の人=本人は困っていないということだ。

もし、困っているのなら、その人は認知症ではない。あるいは、軽度の認知症である。

認知能力とは、自分の外の世界を理解し、対応(対処)できる能力である。

 

では、誰が困っているか?

記事によると家族だという。

 

課題の本質ではなく、課題の関係を問題にする傾向は、

本質を見失う。

 

認知症の課題は、認知症の人を支える社会の問題であり。

本人=認知症の人を中心にすえるべきで、家族の課題を問題に

するべきではない。

 

つまり、認知症を取り巻く社会システムが不備であることが

日本の問題であるのに、その周辺だけを問題のように見せることで、

社会の課題をすり替える。

 

こうした課題のすり替えが最近多いと感じる。

 

問題を解決できるのは、本人だけであるという

当たり前のことを認識するべきである。

 

その人がどんな障害を抱えていても。

 

 

 

 

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2020年3月20日 (金曜日)

連帯する市民

フランスで、夜8時になると医療関係者をたたえて拍手をするという。

イタリアでは窓越しに国歌を歌う。

個人主義が強い国家でおきている連帯。

一方、人の結びつきが強いと言われる日本では、連帯意識は高まっていないように思う。

それは、自国外で同胞を見つけて喜ぶ西欧の国と、自国民を見つけて

がっかりする日本人のように、恥ずかしさからくるのか。

私たちは、一緒に歌える歌を持たない国民である。

皆がバラバラでも、バランスを取りながら生活できる稀有な民族なのだろう。

それは、スカイツリーから東京の街を見ればわかる。

東京は、面白い場所である。

しかし、その絶妙なバランスにウィルスが襲いかかっている。

私たちは宗教を持たないと思っているが、八百万の神が住む世界に生きている。

毎日、寺社仏閣に、これほど祈る国民も少ない。

みんながバラバラに、勝手に、夜8時になったら、自分以外の人のために

小さな祈りを捧げたい。

そして、日々奮闘している関係者を思い、ささやかな拍手を送る。

 

 

 

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チョコレート

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チョコレートをもらった。

いつも、何もできないと言っていたクライエントから。

何もできないといいながら、もう何年も一人暮らしをしている。

それだけでも凄い。

コロナのせいで、一人でいることが辛いといい、外に出ないとおかしくなると

いう人がいるのに、何年も一人で暮らし、殆どの外に出ない生活を続けている

ことは相当の力だと感じる。

人は、プラスの力ばかりを称えるが、マイナスの力も相当なものだ。

何かをすることを評価するだけでなく、何かをしないことにも注目してもしい。

チョコをくれるといういうことは、他人への関心を持ったということだ。

部屋から外に行くことが大変で、階段を下りて、買い物に行った。

今度来たら、チョコをあげようと思ったのだろう。

その気持ちを思いながら食べたチョコレートは甘かった。

 

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2020年3月17日 (火曜日)

役に立つ

少年は、役に立つ人間と役に立たない人間がいるという。

コロナの話でも、人口呼吸機の数か足りない場合に、老人より若者を優先するという

話をイタリア人医師が語っていた。

 

こうした、価値づけの話は昔から価値観を問う場合に聞く。

 

船が沈む時、救命胴衣を誰に譲るか?

 

遭難した時、少ない食料を誰が食べる権利があるか?

 

ここで問題は、自分が当事者であるか、第三者であるかである。

 

第三者的な意見として、これは、社会がどう考えるかを問題にしている。

社会は、社会を維持することを優先にするため、トリアージという考えを生み出した。

これは、人の生存させるという視点で、人間=人を選択している。

 

また、経済という視点で考えると、生産する量=金、の多い少ないで価値を判断する。

これは、社会の役に立つかどうかという考えである。

競争社会、資本社会があり、社会の補完システムとして福祉が考えられた。

福祉は、かけているものを社会が補完するという思想であると、考える人がいる。

そうだろうか。

 

こうした価値観、倫理観とは違う考えがある。

その一つは宗教観、あるいは信仰。

何に価値があるか?それを決めるのは神だと、人間以外のものに委ねる考えである。

そこでは、人間や社会の価値とは違う、無能なもの、意味のないものに最大の価値を認める。

弱さの自由ということかもしれない。

 

もう一つの問題として、自分が当事者となった場合である。

当事者にも二つある。

障害を持つ親の場合など、自分の分身者に対する価値と自分自身の価値である。

 

ここでは、一人称の「私」の価値を問題にする。

問いは「私には価値があるか」である。

 

ここでトルストイの言葉?を思い出す。

「本当に、許されていると信じている人は、そうしないだろう」

こんな言葉だったか?

 

この文章には、曖昧な概念が多い。それでいて、どこか救われると

椎名麟三は言っていた。

 

まず「本当」である。

「本当」とは何か?

「本当」とは、「本当にほんとうに」なのか?

「本当」を証明することはできるのか?

など、本当になんだかわからない。

 

「許す」とは。誰が誰を許すのか?

「許される」とは、罪を背負っている私のことか。

私の罪は何か?

など、わからないことばかりである。

 

「信じる」に至っては、

「信じる」とは、「信じられないのもをそれでも信じること」だとしたら

どうして、にも関わらず信じれるのか・

何を信じるのか?

 

そして、

「そうしない」という。

 

価値の話では、

「他人に価値がないなんて」そんな話をしないであり、

そんな考えをこれっぽっちも思わないである。

 

では何をするか。

畑に行き、毎日、鍬を振り下ろすということを。

 

 

 

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音声入力はすごい

スマホの入力に苦労していた。

親指をこまめに動かすこともできず、何度もたっぷしていると

回数を間違えて押し、初めから押しなおすなど、時間がかかる。

中学生が器用に親指を使うのを恨めしく思っていたが、音声入力を

試したら驚いた。

以前の音声入力は、間違えも多く、直し直し入力することのスレレスで

これは使えないと感じてやめた。

音声入力のソフトを買い、マイクに自分の言葉を覚えさせ、練習を繰り返して

なんとか8割ほどの正解率となったこともある。

しかし、そのソフトを起動し、マイクに抑揚なく話しかけるストレスで

すぐに使わなくなったしまった。

 

それから、数年が過ぎ、スマホの音声入力を始めた、

🎤に話しかけた。

「はなしかけた」。以前のソフトは、「鼻仕掛けた」となった。

このパソコンも「鼻仕掛けた」である。

しかし、スマホのPCは、「話しかけた」となる。

この進歩はすごい。

話しかけるには、聞き取りやすさが重要であり、次第に、

そう話しかけるかがわかってきた。

 

特に効果を発揮するのは、

メールの返事である。

。、改行、スペースなどの「言葉」を入れると

文章がまとまる。

 

あとは、一人喋りが恥ずかしいというくらいだ。

口の動き認識カメラ機能を作って欲しい。

 

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2020年3月16日 (月曜日)

ムカデを見て、何を思うか

舘野さんの書いた絵本を見ている。

しでむし、も、つちはんみょうも、ここまで近寄って見ることは

ないので、びっくりすることが多い。

そもそも、昆虫の世界は、ボクがみている世界のすぐ近くにあるのに、

気にも留めないできた。

コロナのせいで、自宅にいることが多くなり、生活時間が変わり

身の回りの見方が変わった。

これまで、気にせずに通り過ごしてきたことに真剣に向き合うことができると

考えるなら、地面に目を向けることも悪くない。

散歩しながら、地面に這いつくばり、虫眼鏡を向けてみよう。

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2020年3月14日 (土曜日)

若く美しくなったソクラテス

林先生の最終講義を読んでいる。

家にいる時間が多くなり、僕のスペース、家の中のゆみっこー

にいる時間が多くなり、横に置かれた本棚が目に入る。

はじめに、淀川長治さんの「歴史は映画で作られる」を開く。

1970年に公開された映画「小さな恋のメロディー」。

えっ、この映画50年前に公開。

中学生の僕は、女の子とデートで銀座に映画を見に行った。

そう、この映画を。

ビー・ジーズも知らず、映画を見終わってどこに向かうべきなのかも知らない

田舎者は、高い喫茶店に入り、コーヒーが1000円すると書いてあるメニューを見て

驚いた。

高いコーヒーをご馳走するんだったら、手ぐらい繋いでおけばよかったと後悔した。

 

続いて、奥野先生の「僕たちの生態学」これは、昭和48年発行。

ということは、高校生か?

奥野先生は、ジョンレノンと岡林が好きだったらしい。

その頃、五つの赤い風船の解散コンサートに野音に行った。

高校時代は、暗黒だった。しかし、楽しかった記憶しかない。

奥野先生は、「ぼく」たちと読者を仲間のように呼ぶ。まあ、深夜放送を

聞いていた僕らにとって、北山修もかぜこうじもアニキのような存在だった。

 

途中、タイの話が出てくる。昭和48年当時、1バーツは15円だったらしい。

そのから、5年後、ボクがタイのブリラムに行った時は、1バーツ10円ぐらいだったか。

5000円=500バーツあれば、一ヶ月暮らせるくらいだった。

でもヤクルトは10バーツだったかな。

そして、やっと林先生に到着。

 

賢いとはどういうことか

ソクラテスはなぜ死刑になったのか

人々はソクラテスをなぜ憎んだのか

ソクラテスの生と死

 

ソクラテスは賢かったようだが、みんなに憎まれていたみたいだ。

どうして嫌われていたのか、のぞいてみたくなった。

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2020年3月13日 (金曜日)

見られる絵

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額から外し、壁にかけています。

みんななこちらを向いている。

見ている様で、毎日見られています。

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浮きながら前に進む

卓球部がウイルスのため休部した。

そこで水泳をしている。

25メートルは上手に泳げる。

50メートルもなんとか泳げる。

しかし、100メートル以上になると無駄な力が入り、苦しくなってしまう。

僕の場合、長く浮いていることが目標である。浮いているのも中々難しい。

動いていないと沈んでしまうので、足は力を抜き、腕はリズミカルにゆっくり回すことを

心がける。

心がけは大切だ。

丘に上がっても、ゆっくり息を吸い、ゆっくりを吐くことが大事である。

毎日息を吸い、息を吐いていれば、なんとか生きていける。

心臓も毎日なんとか動いていないと死んでします。

全ての臓器が、全ての身体が、少しずつ動いている。止まらない。

このバランスが動的平衡なのだろう。

それでも、つい、力が入る。

 

 

 

 

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2020年3月12日 (木曜日)

アッシジ

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フランチェスコが生きていた1200年代から同じような石畳の道を下ると、

その教会が現れる。

夕方の風が冷たい空気が雲を抑えて雲海を作っている。

何も考えずにそこに立ち尽くす。

スマホを見ている時間がもったいない。

世界がこんなに美しいのに。

 

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2020年3月11日 (水曜日)

あのひ

ほぼ、3286日が過ぎた。

その日、僕は障害児・者の施設にいた。

訪問が終わり、玄関の外に出ると道が歪んでいる。めまいがした。

柱に捕まり、身体を支えた。

揺れが収まる前に、障害を持った子どもが部屋の中から飛び出してきた。

「大変だ、タイヘンだ」と彼は叫び、道の向こうに走り出した。

向こうには彼の大事な花が咲く農園があった。

 

それから一ヶ月過ぎ、宮古に向かった。

凸凹の東北自動車道を走り、遠野に泊まった。

宿には報道関係者が長期滞在していた。

翌日、釜石から大槌、山田を通り、宮古に入った。

 

線路が切れ平らな地平だけが残った風景は、美しかった

道路に重なるように船が横たわり

家の2階の上に、別な二階の家が現れた

瓦礫の街に、学生服を着た少女がバスを待っていた

 

どの風景も止まって見えた

そして、過去の出来事を思い出す。

なぜ、こんな時に

 

それから、一ヶ月後

南三陸の仮設住宅を訪問していた

一軒づつ、訪問し話を聞く

僕の声は、どこか訛っている

 

こんな時、東京弁では聞けない

どこから来たのか聞かれる

一緒にいた仲間が、京都だと答える

 

遠くからよく来たねと言われる

そこから、話が始まる

始まると止まらない

 

寒いだろうからと炬燵に呼ばれ

お茶をご馳走になる

 

こんな話を最後まで聞いてくれてありがとう

と言われる。

とても大切な話を毎日聞いていた

 

 

 

 

 

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一本の電柱と男

舞台に灯りがつく。

夕方の匂いがする。

電柱が一本立っている。電灯がついている。

ベンチには誰も座っていない。

そこに角野拓三が現れる。

左手から、中村伸郎が来る。

 

僕が二十歳だっところ、別役実が好きだった。

雨が空から降ればを歌いながら、夕方の匂いを嗅ぐことが好きだった。

好きな女の子の語る話は、どこか現実離れしていた。

話の筋がどこに行くのかわからず、ただ、そこ声の色を心地よいと感じていた。

 

別役さんは、犯罪心理にも詳しかった。

犯罪者が罪を起こすのではなく、社会が犯罪者を作る

作られた犯罪者は、その人生を語りながら、社会の矛盾を指摘する

 

天才バカボンのパパはいう

それでいいのだ

どこがいいのかは問題ではない。

それで、そのままでいいのだ

しかし、世の中は、全く良くならない

 

ゴトーは来るのか

その目的は何か

ただ待つこと、来ると信じることから

私たちの会話が始まる

 

さて、これから世界はどこに行くのだろう

どこに行くのかわからないから

生きているのだと

パパはいう

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2020年3月10日 (火曜日)

雨が続く世界になると考えて生きる

雨が上がり青空になる。

桜の春、夏の青空、秋の紅葉、冬の雪と四季に恵まれた日本だったが、

それは過去の話である。

すでに、春と秋は殆どなくなり、夏の暑さは赤道地帯より過酷。

冬になっても雪が降らない。

当たり前のことが、当たり前にならない世界になった。

コロナウィルスも、いつか収束すると思っている。しかし、

今回の悪夢が去っても、次の事態が必ずやってくるだろう。

 

こうした世界に生きているのだろう。

雨が降り続く世界を描く映画が今年ヒットした。

僕らは、その中を逞しく、そして、着実に生きていくすべを

持たなくてはならない。

今日も雨が降っている。

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2020年3月 9日 (月曜日)

世界の色が変わる時

援助者の専門性が、被援助者の力を奪っていた。

ケースが上手く動き出すこと、クライエントの生活の質が向上することを援助と考えていた。

しかし、クライエントは、自らを援助される側とは意識していない。

そこにいるのは、認知症の人ではなく、生活する人である。

そんな当たり前のことさえ気づかない僕は、生活者の世界には入れない。

世界は、一定のルールで動いているのではなく、世界は世界としてそこにある。

何が変わったわけではなく、僕の世界を見る視点が変わっただけなのに、そこに暮らす人の

動きが、表情がまるで違って見えた。

どんなに上手に説明するより、僕自身の見方が変わったことで、分かり合えた。

今まで何をしてきたのだろう。

なんと違う道を歩いてきたのだろうか。

 

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2020年3月 8日 (日曜日)

家族で過ごす時間

コロナのおかげで、家族で過ごす時間が多くなった。

もともと家で仕事をする人の多い家族である。

なんとなく、家にいることが後ろめたかった僕にとって、引きこもるように家にいることを堂々としていられることは嬉しい。

少年もテレワークで家にいる。妻は、在宅勤務で家にいる。

久しぶりに、ラジオを聴く。

達郎を聴く。

ウクレレを弾く。

書類を整理する。

靴を磨く。

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信じるということ

椎名麟三が好きだ。

彼は、信じているとは言わない、信じられないそぶりをする。

それでいて、信じていることを伺わせるものを持っている。それは確認に近い。

信じるとは、信じられないものを、確信することである。

信じるとは、そこにあることが無い存在を「ある」と宣言することである。

それは、見えない、触ることができない、もちろん、形もない。

また、私という存在も、そこにはない。

自分の力で信じるのではない。

空から降り注ぐ雨に打たれるように、ただただ雨に濡れるように空からそれは降り注ぐ。

そこには、信じるという行為さえ虚しくなる。

ただ、生きていること。

生きているということは、信じているということである。

もうすぐ、明るい世界が来ると信じます。

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2020年3月 7日 (土曜日)

嫌な気持ちにど向き合うか

すぐに嫌な気持ちになる。

これは老化がある程度の原因である。

感情が摩耗しているのだろう。

忘れることが多いのに、嫌なことは忘れにくい。

だとすれば、前に進める。

考えるのではなく、行動してみる。

やってしまえば、大したことはない。

すぐ、人に好かれたいと考えたり、いい人に思われたいと考えたりする。

この考えることで、気持ちが落ち込む。

でも、すぐに過去を反省している。

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毎日の積み重ね

東北の震災から9年。

9年は、3285日だ。

3280日が経過したと思うと、ずいぶん昔のように感じる。しかし、ついこの間の出来事である。

3250日前に宮古にいた。

東北に縁が薄かった僕が宮古にいたのは、その200日前に、宮古の社会福祉士事務所に実習に行っていた縁があり、Yさんを訪ねた。

余震が続いていた。

その後、南三陸、東松島、石巻、山田町の応急仮設を回った。

震災の前後で、僕の意識に大きな変化があった。

それまで遠ざかっていた場所に行くようになった。

新しいことを進んでするようになった。

懐かしい人を訪ね歩くようになった。

今を大切にするようになった。

あれから、3280日年をとった。

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2020年3月 6日 (金曜日)

書くことの効果

理由があってブログを書かなかったわけでもありません。

余裕がなかったのでしょう。

ゆとりが無いことは、忙しいこととも違います。

書くことは、内省することにつながるようです。つまり、振り返ることがなかった時間が過ぎたのです。

世の中全体が、家にいることを推奨しています。

今こそ、本を読んだり、ギターを弾いたり、料理を作ったりします。

そんな時間が持てることの幸せを感じます。

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未成年後見人

久しぶりです。

なかなか難しい時代になりました。

複雑といったほうがいいのでしょうか。

進歩するということと、複雑ということは重なることが多いようです。

未成年後見人に就任しました。

財産目録を作るために銀行に行きました。

未成年後見人の場合、登記事項証明書は発行されず、身分証明は戸籍に記載された事実で確認します。

今回は審判所があるので、それで身分を確認しました。

未成年の人の親代わりだと認知されます。

養護施設にいた時には感じなかった実感です。

気持ちが引き締まります。

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2019年12月24日 (火曜日)

マスター

休み時間に喫茶店に寄る。

ご飯も食べる。

カウンターには、素敵なマスター(女性)が忙しく働いている。

僕の横には、70代の女性が3人。そうしゃべっているので、多分そうだろう。

ここで知り合いになったと話しているから、多分そうだろう。

話は、夫がなくなりとか、どんなことをしているかとか、たわいない話であるが、楽しそうだ。

マスターは、聞いているわけでもなく、聞いていないわけでもなく、側にいて働いている。

この時間を楽しみにしている、客は、満足している様子。ニコニコしているから多分そうだろう。

ここにマスターがいないと、誰も来ないだろう。

マスターの存在が、この店の良さである。

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2019年12月14日 (土曜日)

沖縄

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沖縄に行った。

10月にね・

首里城にも行った。

沖縄の経済は好調らしい。観光という面では。

宮古島、石垣島には台湾の客船がきている。

台湾(台北)と与那国島は157キロ、石垣島は271キロしか離れていない。

これは、東京から200キロは、越後湯沢、上諏訪、藤枝あたりでしょう。

車で、2〜3時間。飛行機で1時間。

沖縄は、沖縄の時間が流れているので、その流れに中で過ごしたくなる。

 

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思いついたら吉日

デンマークスタディツアーを始めて3年。

来年も行きます。

しかし、皆さん(僕の知り合い)にその話をすると、「いいね」「行きたいわ」と返事が返ってくるが、その後で、「でも忙しくて」「職場を離れられないから」「お金がない」と行けない理由を言われる。

その点、そうした忖度をしない僕は、会社や職場や家庭を顧みず、これまでもタイに、カンボジアに、オーストラリアに、ネパールに、ジンバブエに、共働学者に、東北に、沖縄に出かけ、ヒンシュクをかってきた。

今考えると、それはよかったと思う。僕にとってはね。

今日、早起きして新聞を読んでいたらブッシュマンの話が載っていた。

ビッシュマンの暮らしは週15時間も働けば暮らしていける。

しかし、飢えなどのリスクが伴う。

文化人たちは、飢えのリスクを回避するためパラダイスな社会を作り、いつまでも成長するという夢を抱いている。

これが、ものすごい罠だとも気づかずに。

成長を求め欲望が肥大するということは、多すぎて選べない社会、限りない欲望のために満足できない社会、死ぬことを怖がり永遠の命を得ようともがく社会、美味しいものを食べた絶えずダイエットを繰り返す社会である。

ブッシュマンは、週15時間の労働=多くは食べ物を得るための行動をした後は何をしていたのだろうか?

僕は、週15時間以上働いているので、多分文化人だろう。

みんなはそう思わないとしても。

デンマークでの出会いは、そうした日本の今を考え、仕事と自分のつながりを思い、親や子どもの幸せな将来を願い、そして、これまでの人生とこらからの人生を仲間と共有できる時間です。

 

 

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2019年6月28日 (金曜日)

やってみないとわからない

家族療法学会に来ている。

大会長公演は、関係の変化ーやってみないとわからないだ。

今、クライエントの関係が硬直している僕にはもってこいのテーマである。まず、やってみることを提案しているのだろう。そこに生き、何かをやる、その結果システムに変化が生まれる。

まあ、そうなんだけど、電話の繋がらないクライエントとの関係に苦労している。そして、電話がかかってくるクライエントにとっては、電話にでられないことで、苦労しているのだろうと想像する。

演者は、障害者のメディアプロダクションを作っている。

映像制作をするとは、人の人生をカメラに映すことである。カメラは、ただ、機会的に記録を残しているのだが、映す人により記録映像が変わる。一流カメラマンと3流カメラマンでは、映像が全く違う。つまり、そこがプロなのだろう。

これまでの人生で何も専門性を持たない僕の映像は、いつもボケている。なんだかよく見えない、フォーカスが定まらない。

でも、現場を持っている、現場を持ち続けていることは大変なことである。

現場には、やることがある。

うまく、事象を写し取ることができなくても、関係は変化する。

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2019年6月25日 (火曜日)

ヒュゲ

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チェルキー・クルムロフで買ったボヘミアンガラスに描かれたアダムとイブ。ヒュゲについて山本さんが語っていた。温かく、のんびりした、愛に満たされた時間のこと。そこに、誰がいるかが重要。アダムとイブの距離のように、リンゴを通した距離があり。食べ物(リンゴ)と着物(いちじくの葉)と住むところ(リンゴの木の下)と二人の愛(スピリッツ)と降り注ぐ神の愛(見えないけどね)がそこにあればいいね。

 

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2019年6月24日 (月曜日)

ギャップイヤー

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ギャップイヤーとは、人生の中で次のステップに行く前に自分を見つめる時間のことのようだ。

よく使われるのは、大学卒業後、社会に出る前に1年ほど放浪するとか、自分探しをするとか。

(自分探しに関しては、そんなものはないというのが、僕の持論)

そうした時間が大切だと考えるデンマークでは、フォルケホイスコーレがその役割を担っている。学生時代に将来を考える時間、会社を辞めもう一度進路を考える時間、離婚をし今後の人生を考える時間、仕事に疲れ休職する時間、ダイエットのため痩せる時間、趣味を極めるための時間などなど、人生の中の1週間、1ヶ月、半年、1年をそんな時間に当ててもいいと考える。そうじゃなくても6週間ほどのバカンスに行く国である、人生を考える時間のなんと多いことか。幸福はやってくるのではなく、自分で作り出すものなのだろう。

そんなに休めないよ、自分がいなくなったら困る人がいるじゃないと思うかもしれない。しかし、僕らがいなくなっても地球は周り、会社は動く。

それに、しっかりと休み、リフレッシュすることが社会にとって大きな意味があることをデンマーク人は知っている。それが、合理的なシステムなのだ。

僕の主催するデンマークスタディーツアは、僕らにとってのギャップウィークである。そう、あなたの人生をもう一度考える豊かな時間が、あなたとあなたの周りの人を幸せにします。というコピーにしようかな。

ギャップとは、穴なのかもしれない。穴を埋めないと、何かがそこに入り込み、取り返しのきかないことになるかもしれない。穴は小さいうちに埋めましょう。

 

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効率性

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研修を実施する場合、その成果が期待される。結果として成果が求められる。研修に来て眠っている人や、得た知識を全く活かせないのでは研修を受ける、企画する意味がない。そう考えることもできる。

では、意味とは何か、効果とは何か、成果とは何か?

意味がある生き方をしなければ人として価値がないのか?

効果を判断する人は誰なのか、また、効果はどのような形で現れるのか?

ハンディキャップを持つがゆえに、目に見える効果を出せない人は、生きる意味がないのか?

高齢者は、研修を受ける意味がないのか?

そう問われたとき、なんとなく生きている僕には厳しい指摘に聞こえる。

また、1週間の研修、しかも、短時間の訪問やレクチャーで何が分かるのかと問う人がいることも知っている。

グルントビーがフォルケホイスコーレを作ったとき、農民にこそ、知識が少ない人にこそ成人学校が必要だと述べている。そこで大切なのは、「生きた言葉」がそこにあるかどうかであると。

そう考えると、デンマークという地球の反対側に来て、生きた対話ができるかどうかが重要なのかもしれない。

もちろん、日本でだってできる。しかし、自分のフィールドではダメなこともある。人生を考えるときには、場所を変えることは大きな意味を持つ。

と考えると、重要なものは、対話の時間だった。

参加者は気が付いていないかもしれないが、初めて会った人と過ごすゆったりした時間、一緒にビールを飲み語り合った時間、一緒に海に入り夕日を見ていた時間、なんだかイライラして感情をぶつけた時間、雨の中サイクリングをした時間など、なんでもないように見える時間と、そこにいた隣の人と語り合った「生きた言葉」が、この研修の醍醐味なんだと思う。

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お墓その2

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お墓は、夫婦の墓が多い。もちろん、家族歴代が葬られているお墓もある。ただ、デンマークでは18歳になると家を出て、結婚して新しい家族を作る場合が多いので、墓も世帯ごとになる。この辺も、社会システムをお墓が補完しているように見える。もちろん、一人墓もある。

教会税を払っているので、原則どこの教会の墓地にも入れるのだろうが、地元の教会の墓地に入る住民が多い。

お墓は、土葬と火葬両方OK。合理的な国であり、火葬がOKになったのだろう。人口と国土の割合からいっても土葬する土地はたくさんあるように見える。

また、埋葬期間は、20年だと言っていた。これは土葬の場合で、火葬はそれより短い。この期間は、土に帰る時間のようだ。だから、教会の墓地が一杯になり入れないよと言うことは起きないのだろう。

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2019年6月23日 (日曜日)

ソーシャルワーカー

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ソーシャルワーカーから話を聞く。

まず、ソーシャルワーカーは公務員である。また、専門分野に別れている。

今回話を聞いたSWは、児童関係、法律を犯したあるいは家庭環境に課題をもつ子どもを支援している。

子どもとは18歳までをいう。18になると成人として扱われる。

日本の児童相談所の児童福祉司のような役割である。しかし、彼らは、裁判書に繋がり、家庭から子どもを分離する権利を持っている。できるだけ環境を変えないことが子どもの権利を守ることから、家庭そのものを支援することにも、もちろん力を入れている。

したがって、相談で解決できる場合が一番である。それでも、難しい場合には、家庭への直接支援を行う。それは、子どもの扱い方、付き合い方から、様々なノウハウまで、家庭に訪れ支援する。その他、家族ごとまとめてモデル環境に置き、家族機能を高める支援も行う。こうしたノウハウを持つのは、児童の専門家であるペタゴーがあたる。

子どもと家族を分離する場合には、養護施設のような環境も用意する。しかし、日本の施設とは根本的に違う。まず、規模が小さい、グループホーム程度の規模であるが、最大5人ほどだと聞いた。そして、期間がある。ホームでの生活は、あくまで仮のものであり、家庭との調整を行い、早期に家族機能を整えるプログラムが行われる。

その支援にあたるのがペタゴーと呼ばれる専門職。

ペタゴーは、個別課題を解決する専門職であり、生活の世話をするケアワーカーとは違う。もちろんケアワークもするだろうが、それ以上に、子どもと環境への積極的な働きかけを行うことが期待されている。

その他、子どもの環境アセスメントを行い、使える資源として、親族が子どもを預かることもあるようだか、数は少ないという。

多くの場合(コミューンによるだろうが)里親を仕事としている家庭に子どもを預ける。専門里親の割合が(このコミューンの場合)50%位の割合にあるという話であった。

専門里親から、里親に変わる家庭もあるという。

専門里親を推進しているのは、子どもにとって、環境的に望ましいということもあるが、経済的な意味合いも大きい。

また、施設を作ると半永久的にそれを維持しようとする日本に比べ、その規模も小さいので、閉鎖されることもあるし、専門性が弱い場合や相応しくない支援を行う場合には、SWが直接文句を言う(指導とは言わなかった)と言う。当たり前だが、SWの力の大きさと責任を感じた。

オーストラリアの施設を訪問した際も、政権が変わると予算が切られることもあり、独自の財源がない施設は、どんなに良い実践を行なっていても閉鎖すると言う話を昔聞いたことがある。

また、SWは、法律に基づいて仕事をしている。これも当たり前であるが、児童に関する基本法とそのガイドラインを駆使して仕事をしている。

話は変わるが、一時保護所のような数ヶ月子どもを保護する施設はない。日本の一時保護所が子どもの権利を侵害しているのは、この保護というシステムが問題であると感じる。一時保護と呼んでいるが、3ヶ月以上教育の機会を奪われ、友達とも交流できない環境に置かれるのは権利侵害である。

SWが最後に言っていたのが、18になった際に、子どもが社会に自立できるようになれば嬉しいし、そのために仕事をしている。つまり、国に貢献する人を育てることがSWの仕事である。こんなセリフを言ってみたいね。

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お墓

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教会には墓地がある。

それは当たり前のようであるが、そうではない。

教会の役割は、信仰の場であると同時に、地域の住民の生と死をつなぐ場所である。

国民は教会税を払い、14歳になると信仰告白(のような儀式)を行う。

プロテスタントが国教であるデンマークでは、国民としての義務を確認するような儀式だと感じる。

教会は、信仰場であると同時に、プロテスタントの倫理を学ぶ場所である。牧師は、宗教省のようなところに所属する公務員。したがって、子どもたちが事業の一環で教会を訪れ、国教の役割、デンマーク人としてのコモンセンスを学ぶ。

訪問した牧師は、地下室に子どもを連れて行き、電気を消し、考えさせる。不安を感じたり、人生に迷ったとき、そこにいるのがキリストであると。地下室の壁には等身大のキリスト像が置かれている。

信仰が、信者のものだけではなく、国民のものになるとは、このようなことなのだろう。

墓地に眠る人の思い出が墓となっている。その人がどのように生きたのか、お墓をみると分かる。墓も生きている人と対話をしている。

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バカンス

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ボーゲンセは、オーデンセ から車で30〜40分。

港町である、ドイツやスウェーデンからヨットでバカンスに来る。車の後ろにキャビンを積みキャンプに来る場所だ。

キャンプは、1週間以上いるのだろう。デンマークでは4週間以上の休暇が当たり前。企業もそれを前提に仕事を回す。

家庭医を訪問した際の、「当然休む」という。

休みが多くていいなと考えるのは違う。仕事を効率的に回し、そして、国家が平和に、国民が幸福に生きるためにそうしているのだ。

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サウナ

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今年もサウナに入る。

自分で火をつけ、石が焼けたら水をかける。

50度くらいだが、汗がすごい。直火だからか、60度以上にはならない感じだ。

ここでも、することはおしゃべり。なにせ夜が長い。もっと仲良く喋ろうよ。

しばらく汗をかいたら、自転車に乗り海へ。ビールを買って、夕日を見ながら飲むビールは最高。

地元の人は、氷のような海に飛び込んでいる。

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カードゲーム

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デンマーク人は、カードゲーム、ボードゲームなどのゲームが好きらしい。

電車に乗り、ボードゲームをやりだす親子、目の前の若者は、ポーカーを楽しそうにやっている。どこか懐かしい。負けた奴がシッペをするのも同じ風景。

もちろん携帯をいじりながらの奴もいるが、会話がある。

そう、絶えずしゃべっている。

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難民支援団体

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難民問題は、ヨーロッパにとって大きな問題である。そのことはデンマークでも同様だ。

ドイツを経由して、陸路高速道路を大勢の難民が歩いて国境を超えるというニュースが流れたという。

政府は、UN加盟国であり、一定の受け入れ枠を持っているが、それを一時止め、緊急に入ってくる難民に関わることになったという。

それ以上に、移民が政治的な問題として認識され、先の選挙の争点になった。そういう政治的な問題を家庭でも職場でも議論する、そのことがこの国の民主主義である。

それは、自分の主張を通すためでも、相手を負かすためでもなく、対話をすることが民主主義で大切だからと考えている。難民の問題も複雑であり、国民の心情は、一つではない。そのことが問題ではなく、この問題を語らないことの方が問題と考えているように見えた。

 

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補助具

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補助具を扱っているセンターを訪問。

もちろん、最新の機械や用品がたくさん紹介されていた。

写真のベッドのモーターは、6以上あり、センターの丸い部分が回転し、寝ながら操作し、車椅子に移れるようになっている。つまり、介助されず自力で動くことに力を入れている。それは、リフトについても同様であり。部屋の四方にリフトの柱とレールが敷かれ、ベッドから自力で移動できるように工夫されている。

介助者は、法律でリフトアップ、つまり持ち上げる行為を禁止している。

これは、介助者のためではなく、介護を受ける人のためにある。自立した生活の中でこそ尊厳ある生活が送れるという思想だろう。

センターは、模様替えをよくするという、その時々のテーマに合わせた生活を提案している。訪問時は、未来の生活をテーマにしていた。その前は、認知症をテーマにしていたという。

足りない部分を補助するための用具を提案するのではなく、生活全体、暮らし方、生き方を考えることに力を入れている。

それは、福祉社会の中での補助器具の思想だろう。

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LGBT団体

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LGBTの相談、支援を行なっている団体のスタッフから話を聞く。

日本も少しずつ多様な社会になりつつあるが、まだまだ道は遠いと感じるし、私自身の価値観もパターナリズムに侵されている。

性教育団体に所属していた経験もあり、LGBTの人との接点は昔からあり、関わりを持つこともある。

具体的な活動は、日本の団体と大きく変わることはないと感じた。そして、多様性があるデンマーク社会でも、自分のアイデンティティに関する悩みはある。

スタッフが自らの体験を丁寧に話され、そのライフヒストリーを語る真摯な態度に感銘を受けた。

また、社会のシステム、宗教的な慣習についても合理性があると認めると、法律を変え、社会システムを変更に関しても積極的である。人間は平等であることを法でさだめ、その上で何を選択するかを任せる社会であり、そのために、幼児教育から、価値観の多様性、選択の自由、他者の存在を認める行動を取ること、権利を尊重することを教えている。

それは、日本だって同じだよね。

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エコビレッジ

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デンマークの福祉・医療・教育に関する研修3年目。第2回スタディーツアーが終わった。

忘れないうちに、心に残ったことを記録したい。コペンハーゲンのホテルにいる。

エコビレッジは、リユース、リサイクル、シェア・・・再生可能な社会、エコロジーに即した社会で生きたいと考える人たちの村・共同体であると考える。デンマークのエコビレッジも同様であり、大小様々なエコビレッジが存在している。それらは独自の考え、理念を持ち村の運営をしている。日本にもそのような共同体が存在することは知られている。

今回訪問したエコビレッジは、歴史ある建物を保存するとともに、自らが家を建築士、エネルギーも自然エネルギーを再利用し、小さな生活、効率的な生活を進めている。

住民の多くは、外で仕事を持ち、村に住んでいる。村に対しては、一定の役割を持ち、村の運営、経営に関する負担を負っている。

その役割は、合理的な国だけあって、週何時間、一日何時間と決められている。しかし、のんびりして者であるように感じた。

その原因は、住民の多くが経済的にある程度自立しているというデンマーク社会の特質が関わっている。日本のエコビレッジは、経済的に独立するためには、かなりの経済活動を行うか、村人の負担が大きくなる。

村の中には、子供たちも遊び、自然をおもちゃにしている様子が見え、小さい頃を思い出す。

案内された家は、前の住民から引き継いだ建物で、夫婦、子ども二人で暮らしているという。エネルギーは太陽光、冬場は、電灯に、夏場は冷蔵庫に使うことが多いと言っていた。しかも、電力の少ないLEDを使う工夫も行い、曇っていればランプやろうそくで暮らすことも楽しそうに見えた。

農場、木工、織物、編み物など、自然の素材から生まれた材料で物を生み出し、地域から集まった衣類などを再利用していた。

ここで暮らしたいという人は、一定の仕事をすれば住むことができるので、興味がある人は、半年、1年と暮らしてみることもできる。

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2019年5月15日 (水曜日)

お節介の心

この仕事をしていると、やった方が良いことと、やらない方がい良いこと、それに、その中間があるような気がする。

気がするというぐらいだから、曖昧である。

一般的には、「そうすることが望ましい」という事柄の場合。自分のことならその決断を下すのは、自分であるから、責任を追えば良い。

しかし、支援者の場合は、そうはいかない。特に、後見人等の課題に対しては、行為を実行することの責任に加えて、それをしなかったことの責任を本人だけが負う訳ではないという問題が生じる。

周りくっどい言い方になるのは、曖昧な状況だからしょうがないけど、分かりにくい。

例えば、ゴミの処理の問題であり、病気の治療も判断であり、近隣との付き合いの問題であり、何を食べるか、風呂に入るかなど、あらゆる行為がここに想定される。

ゴミで言えば、それをゴミというか、宝というかは、その人の価値観であり、環境(精神的な状態が大きいが)左右する。放置すれば、近隣とのトラブルになる、処分すれば、本人に権利侵害になりかねない。

病気に治療でも、一般的に検査、手術することが本人の予後に最適であり、殆どの人がそれを選択するような場合がある。この一般的という言葉が嫌だね。

しかし、うまく判断できない人が、検査治療を拒否する状況がある。この時、正しい判断ができない状態であるから、本人の拒否するという気落ちに逆らって、治療することが、最終的には本人のQOLに良いです、とはなかなか言えない。

かと言って、本人の判断を尊重した結果、病気が進行し、命に関わる状態んいなることもある。

そんな極端なことはあまりないでしょと思うかもしれないが、よくある、というより、ほとんどの判断は曖昧な中、下されている。

考えると何が正しいのか、正しさを考え始めると動けなくなる。

多くの人は、それでも、自分で判断して生きている。

一方で、判断できずに、立ち止まり、判断を先送りにし、多くの人とは違う判断をする人がいる。それが、成年後見人を支援するということかもしれない。

総合的に、協力者を集め合議で決めればと考えるかもしれないが、プロセスとしては、最良かもしれないが、決定については同様のことが起きるのである。

何かを選ぶということは、選ばれなかった事柄について、悔いが残る。

その小さな決定、後悔のサイクルで回ることが人生だとも言える。

 

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2019年5月 1日 (水曜日)

イタリアの憂鬱

イタリア映画を10本観た。

感じたこと

1、女性は、家では絶対的な存在感を持っているが、社会的には平等ではない現実がある。

それでも、男性より生き方に多様性があり、面白い。

2、カトリックの国だと言われているが、信仰を持つ若者は少ない。これは、信仰がなくても仏教的な儀式を大事にする日本の状況に似ているような気がした。日常の生活、文化として宗教が蔓延しているが、信仰は別のところにある。

3、金持ちと仕事がない若者の格差が広がっている。失業率が高いことだけが問題ではなく、将来に対する希望が持てない社会になってきている。その反発として、移民排斥、ドラッグ、暴力など、問題から逃げることばかり考えている。政治家が、イメージ戦略で問題を隠そうとする日本に状況に似ている。

4、そこにムッソリーニが現れても、誰も変だと思わない。「帰ってきたムッソリーニ」。

それどころか、彼の見て右手を前方斜めに挙げ、同調するような人までいる。自国第一主義が進むヨーロッパの現状を感じる。

日本の映画に、こうした批判的精神を持ったものがあるか?多分あるだろう。しかし、マスコミは、辛いことより楽しいことを。苦しいことより、美味しい情報ばかり流す。

そんなに浮かれていて、ほんとうに大丈夫だろうか。

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一人暮らしをする

高齢者の一人暮らしが問題になっている。

高齢者は、望んで一人暮らしを選択しているのではない。

一方、若者は一人で暮らしたがらないことが問題である。

これは、自立の問題である。

自宅外に住む大学生は、国立大学で68.1%、私立で35.3%(独立行政法人日本学生支援機構2018年)。この数字を多いと考えるのか、少ないと考えるのか意見の別れるところであろう。

これは、経済的問題が大きく関わると思われる。

デンマークなど、北欧、あるいは、欧米では、学生の一人暮らしは当たり前である。経済的問題は、アパートをシェアすることで、また、奨学金で解決しようとする。

デンマークの教育の目的は、社会的自立を目指す。

小さい時から、学生時代が終了したら家を出て行くことが当たり前だと教えられる。何をして生きて行くか=職業について、考える時間を与えられる。それは、障害があり一人で暮らせない人でも同様である。

年金を受給して、納税者となり、どう暮らして行くのかを18までによく考える。

しかし、日本では、良い大学に行き、良い企業に入ることを教えられるが、一人で暮らすことを教えられない。そんなことを考えなくても生活できる。

それでも、昭和の若者は、一人暮らしに憧れ、家出を勧める風潮があった。

それは、家にいないと暮らせない、家にいる方が楽、結婚もしたいけど、二人で暮らすこともできない人が多くなった。

家族というシステムが崩壊していると言われる一方、家族に依存しないと生きられない社会はどこかおかしい。

成人=18歳になったら、一人で生きられる社会がくるといいね。

 

 

 

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2019年4月 9日 (火曜日)

正しさを追求することの苦しさ

viceを観た。

vice、悪とは何か?

チェイニーの歴史的裏話の映画である。

戦争は大義があれば「良い=正しい」訳でもなく、しかし、なんの根拠もなく何十万もの人を殺す作戦を一部の官僚=政治家が立てているのは恐ろしい。

そこに、アメリカの「正しさ」が加わる。映画では、同性婚という選択に対して、YESかNOかを問題にしている。これは、今に繋がるキリスト教福音派の話であろう。どちらの派も、自分たちの考えが正しいと主張する。

主張できるだけ、アメリカはマシなのだろか。

チェイニーの娘が同性愛者として生きることを選択するところが、面白い。自分の正しさと娘とどちらを選ぶのか?

イラクに侵攻する訳だが、アメリカという土地からはあまりにも遠い。そこは官僚や政治家が想像できない距離にある。しかし、兵士は想像ではなく、現実としてイラクを体験し、帰国後自殺し、PTSDに苦しむ。

この苦しむ人と、遠くで見ている人の対比も映画の本質のようだ。

私たちは、当事者であると同時に、加害者という立場を持っている。例えば、朝鮮に人の思いと、日本人であるという現実である。

戦争は、誰かが行ったわけではなく、人間として=私もその種、人が人を殺した。

殺された人にとって、そいつを**という名前で認識することはできない。その人より、戦争を決定した人や国に対する憎しみが生まれるのも当然であろう。

さて、この国の政治はどうなっているのか?

平和なのだろうか、人を殺していないのだろうか?

そうではない、自殺する人は毎年数万人に上る。

いい加減な人より、正しさを追求する人の方が苦しむ社会のような気がする。

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2019年4月 4日 (木曜日)

お金を使う国になるには、どうしたらいいか

イギリスも、ドイツも、もちろんデンマークの人もそれほど貯蓄をしない。

イギリス人で貯蓄額が140万円未満の割合が40%だという数字があるらしい。

その点、日本では、年金では生活できないからと貯蓄をしているかといえば、そうではない。

2000年頃から貯蓄率はどんどん下がり、OECD38カ国中、下から十番という低い位置に落ちている。

貯蓄率の低下は、高齢化が関係している。高齢者が増え、貯蓄を切り崩して生活している。そして、労働環境の変化。非正規社員では貯蓄なんかとんでもないのが現状だ。つまり、戦後最大の好景気と誰かが言ってるが、貯蓄もできない時代になっているのだ。もちろん、社会システムが大きく影響している。

では、ヨーロッパ並みに貯蓄が減り幸せになったのだろうか?

ヨーロッパの人は、貯蓄よりはバカンス。仕事よりは、老後の楽しみを優先する。できるだけ早く退職して、その後の人生を楽しむ。それでも幸せなのは、国が生活の面倒を見るからである。(日本では、年金受取り年齢の引き下げを検討している)

一定以上の貯蓄をすると課税される国さえある。金を貯めるより、生活を楽しめ、あとの面倒みる政府がいる。

ヨーロッパも、いろいろな問題があり、大変そうである。それでも、生活を第一に人生を楽しんでいる。

一方、日本は平和で、なんでもあって、幸せだと宣伝している。

そうなのか?

安全は?原発事故の処理さえできず、次の地震で発電所がどうなうのかさえも分からない国である。隣の国と対等に交渉さえできず、国防費を増やすことで、危機を高めている国である。

幸せについても、若い人、一部のエリート、優良企業にとっては幸せな国であるが、弱い人、子ども、老人には厳しい国である。

未来の話をする前に、そろそろ過去の総括をして、どんな国にしたいのかを話し合った方がいい。

貯金を切る崩さなくてもいい国が、幸せな国だと思う。

お金は、貯めるものではなく、使うものだ。

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成年後見人の報酬

成年後見人の報酬を引き下げるという報道があった。

成年後見人の報酬は家庭裁判所が決定している。

報酬とは何か?これは、被後見人の業務を代行していることに伴う、費用である。認知症などで、判断能力が低下している人の権利を守り生活の安定、生活の継続性を支援するために就任するのが成年後見人である。

成年後見人の約半数程が、弁護士、司法書士、社会福祉士などの士業と呼ばれる専門職である。

当初、親族が後見人になることが多かったが、その後専門職が増え、そして、専門職でも賄いきれないほど申し立て件数になっている。

また、親族からは、後見報酬が高すぎる、あるいは、業務と報酬が一致していない、つまり、大した業務を行っていないのに、財産が多い被後見人から高い報酬が支払われているのはおかしいという意見があった。

さらに、財産管理だけでなく、身上監護あるいは生活支援と言われる、財産管理以外の業務に対する評価が低いという意見もあった。

このような背景があり、報酬の見直しに取り組もうというムードになったのだろう。

当然のことだと感じる。

ここご多くの人が疑問に感じることが、財産がない人は後見人をつけられないのか?ということである。

そんなことはない。

成年後見制度は、国が国民を守るための制度であり、財産の有無で左右されるものではない。

では、財産のない人の報酬は誰が払うのかという疑問が生まれる。

現状では、自治体に報酬助成の仕組みを作っているところがある。しかし、一定の予算の元に助成をするため支払額に限りがある。

また、専門職団体にも報酬助成制度を持つところがある。これまた、会員からの会費を財源にしているので、支払額に限りがある。

家庭裁判所では、報酬の規定はないと言っているが、大体の月2万円程度を基準にしているようである。従って、自治体も同様の規定を持っている。ちなみに社会福祉士会の報酬助成は、ケアマネの報酬より低いのが現状である。

個人的には、専門職後見人が一定の件数を担い、安定した業務を行えるくらいの報酬が必要と考える。その上で、担当件数の制限も必要である。

大切な制度を作っても、その制度が継続的に運用できるシステムを作るのが下手な国だと思う。

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2019年4月 3日 (水曜日)

サービスを組み立てることができない

ヘルパーがいない。

ケアマネも見つからない。

介護現場は人手不足だと誰かがいう。その誰かは、外国から人を呼ぼうとする。

介護は重要な仕事ではなかったのか。重要な仕事に見合う価値を与えず、安いだけの仕事にしていいのだろうか。

そもそも介護保険は、介護という仕事を私的なものから公的なものにした。と思っていた。

社会が介護を担うことで、安心できる社会を作ろうとした、のではなかったのか。

そうした価値下げが進み、ケアの質は下がり、スタッフのモチベーションは低下している。

そうだろう、外国からの安い労働力を入れることだけが先行し、その質を誰も考えていないのだから。

専門教育をすると誰かがいう、そうなら、現状のスタッフの専門性を上げる取り組みをし、保険単価をあげるべきだろう。

高い賃金が必要である。それ以上に、この仕事が重要であるとい価値が大切である。

現状の介護ビジネスになる前、税金がほとんど投入されていない時代に、介護、福祉に関わる人には、それなりのやりがいがあった。自分のやっていることに自信を持ち、関わりの意味を感じていた。

介護をお金で評価する時代になり、その賃金をあげないということは、介護は重要ではないと評価しているのと同じである。

 

社会に貢献してきた人たちに対する人生の最終盤のサービスをどうするか。そのためのケアシステムが必要である。

 

 

 

 

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中央線

矢野顕子の声を聞いている。

彼女の声が好きだ。その揺らぎが僕を心地よくする。

中央線が聞こえてくる。電車の乗っていた僕がいる。何を見ていたのだろう、阿佐ヶ谷の駅に立ち。

真夜中の飯田橋に向かう。誰かの声を聞くため。その声はどこへの届かない。ただ、ぐるぐる回りながら重さだけが両手に乗る。

若くはなかったけど、会社を辞めて小さな事務所で横になる。

だって、仕事がない。

こんなにもすることがないことが辛い、と白い天井ばかりを見ていた日を思い出す。

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2019年4月 2日 (火曜日)

時々考えること、腹が減ること

中込先生のことを考える。

それは、誰かの訃報に接したときの話、突然「あれ、中込先生、生きていたらいくつかな?」という会話で始まる。

すぐに、計算を始める。

亡くなったのが、何年前だったか考え。よく覚えていないことに愕然とする。

10年前、いや違うということになり。

子どもが、生まれた時、**で一緒に食事をしたよねと思い出す。

そうすると、あれは、2*年前だから、俺が**で、中込先生は退職していてという具合に。

少しづつ繋がる。しかし、いまいくつか分からない。

いくら思い出そうとしても、そもそも知らないということが分かる。

じゃあと本を引き出して、経歴を見る。

昭和*年。そうか、母親と1歳違いかと、なんだか不思議な気分になる。

部屋にフクロウが沢山いたね、と変な記憶が現れ。どんどん、違う方向に進む。

会いたいなーという気分になり、母親は死んじゃたんだと、悲しくなり、最後は、腹が減ってくる。

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二面性を考える

二面性とは、えっそんな面があったの?と、意外な面が見えたりする人にいう。

でも、僕たちは、一面では生きていない。むしろ多面性、多様な顔を持って生きている。

しかし、一方、一面でしか生きられない人がいる。

佳子さん(古いけど仮名)は、いつも真面目に考える。考えると、黙っていられなくなり、すぐに、どこでも電話する、訪問する。電話される人は、訪問された人は、「えっ、それっていまじゃないとダメ」という顔をする。だって、佳子さんはいつも、突然のように興奮した物言いで迫ってくる。

佳子さんのことを、分裂しているという人がいるが、むしろ分裂できない人だと思う。

多様な顔を持てるということは、少しぐらいおかしいことでも、そういう面があるよねと許せるけど、佳子さんは1面しか信じられないので、許せない。何しろ、おかしいことが多すぎる。

人は、嘘をつく、いい加減なことをいう、冗談をいう、それも表情を変えずに。

そんな嘘、言い訳、繕いを佳子さんは忘れない。

そう、忘れないことで佳子さんはまた、苦しくなる。

だって、忘れた方がいいことが多いのが人生だ。って誰かが言ってたような気がする。

佳子さんは、潔癖症なのじゃない、一面を大事にしているだけだ。

そう、みんな裏があるって知っていて知らないそぶりができる。

元号が変わっても、日本な何も変わらない。そんなことは誰でも知っている。知っていながら、何か新しいことが始まるかもしれないって顔をしている。その顔を佳子さんは読めない。

佳子さんに「それでいい」って言いたいけど、時代はどんどん変わるような雰囲気だけを漂わせている。

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2019年2月16日 (土曜日)

私たちは、幸せなのだろうか?

京都でノーマライゼーションを実現する社会を作りたい人たちの集まりに参加する。ミケルセンに学んだ千葉さんの話を聞く。

千葉さんとの出会いは、20年ほど前になる。
デンマークの福祉の話を嬉しそうに話していたし、今日も変わらず、教育が社会の基礎を作るという話をしている。
変わらないということは、理念が一貫しているということでもある。
その、デンマークのスタディーツアーを始めて2年目。今回の参加者が13名となる。現地集合という条件を出し、事前研修を行い、基本的な知識を身につける条件で人集めをしている研修にこれだけの人が集まることに感謝する。
人が人とつなぎ、そこに何かを感じ、新しい出会いが生まれる。
これはやめられそうにない。
千葉さんが聞く。あなたは幸せか?また、日本をどうしたら幸せの国にできるのか?
僕たちは、幸せについて多く語ってこなかった。
それは、国家にとって国民の幸せが重要な課題でなかったからだろう。
教育は、国家にとって有益な人を育てることが使命であり、人の幸せを追求することが命題にはなっていなかった。
学校で、幸せのことを習わなかったし、神の概念を習わなかった。
生きる上で大事なことを語ってこなかった。
僕たちの幸せはどこにあるのだろう?
もっと、幸せについて語りたい。それも、世界一幸せな国で。

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2019年2月13日 (水曜日)

書けない

今年に入って2回目の投稿。

毎日忙しいわけでもなく。
時間を無駄にしているのにも関わらず、落ち着かない。
この気分は人生の折り返しを過ぎ、かなりの時間がたった事によるものかもしれない。
時間感覚は、それまで過ごしてきた分で決まる。10代では、それまでの時間が短く、一日が長い。それに比べ、50を超えた頃から、これまでの時間がこれからの時間より長くなる。つまりは、人生の先が見えてくる。
その短い時間を有効に過ごせない。何も手につかない。という気分に襲われる。
そこで、今まで放っておいたことを始める。今まで、参加を躊躇してきた団体に加わる。行きたかった所に行く。会いたい人に合う。
と、考えているのが病院である。
検査入院でも、病院は身体を蝕む。
生きるということを考える場所が、病院というパラドックス。

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2019年1月 6日 (日曜日)

変化

変化は突然にやってきた。
朝おきて声を聴くように。夢を見るように。
それに、従いたいと思うようになったのが、大きな変化。
それまでと、何も変わっていないのに。

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2018年12月15日 (土曜日)

1年を振り返る

1月2月、うーん平凡な毎日を過ごす。

3月伊豆物件調査など、後見業務
4月5月 イタリア映画をたくさん見る。
6月デンマークに行く。第一回スタデーツアーは成功する。
7月沖縄でダイビング。
8月家族療法学会、東先生の感謝療法に出会う。
9月妻入院
10月沖縄でダイビング
11月イタリアへ親子旅
12月平凡な毎日
普通の1年でした。

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2018年8月28日 (火曜日)

デンマークスタディーツアー

2019年のスタディーツアーに向け、2回の説明会兼研修を開催することができた。
申し込みも順調に進み、現在12名が参加予定。嬉しい限りです。
来週も説明会を行い、これで参加者が決定します。今年、参加できなかった方、来年行きましょう。

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ももこ先生が亡くなった。
祖師谷大蔵の商店街で小学生が、ぱっぱパラリラと歌いながらスキップしていたのは、30年近く前か。
世田谷区の住宅助成を受け、民家の二階を借りて妻と二人の生活。その後、少年が生まれた街。

まるちゃんの友達では、永沢君と野口さんが好きだった。今も好きです。
みんないい人じゃなくて、ちょとアクがある少年少女が登場するとホッとする。

僕が小学3年生の時、東京から埼玉の学校に転校した。
世間のことを知らない子、今もだけど、だったので、かなり戸惑った。いじめられた記憶はないけど、みんなとの差を感じて、仲間に入れない気まずさはいつも感じていた。
写真を見ると暗い少年の顔をしている。それから何十年、よくここまで頑張ってきたと褒めてあげる。と、これまでも、これからも自分に甘い。

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2018年7月 8日 (日曜日)

分かりにくさ

分かりやすいことは楽である。物事に白黒つければ、自分の立ち位置を決めやすい。
オウムが出始めた30年前に、教会でオウムの話をしていた。教会でと言うところが肝である。
話をしている人たちは、宗教家が迫害の歴史を辿ってきたことを知っている人たちである。彼ら、オウム信者は、僕たちと同年代の若者であり、僕らも当時若かった。
マスコミは、今も、悪い集団というレッテルを貼り、彼らを区別、差別した。
しかし、差別されることは、教義にとってマイナスではないことは分かっていた。むしろ集団を強化する働きを果たしたことは歴史が証明している。
事件の教訓はどこにあるのだろう。
分かりやすさを求めることに急ぎ過ぎた結果ではなかったのか。そうした世間の風潮は相変わらず、ハリウッド映画のような演出を好む。
分かりやすさは対立を生みやすい。
人間のことを 僕たちはどれほどの分かっているのか。
動的平衡という考えで言えば、何かが出現することにはそれなりの意味があり、バランスを取る機能を果たしている。日本の分かりにくに社会を誤魔化すように政策を進めれば、また、分かりやすい集団が生まれるだろう。彼らにとって、自らの教義、信仰こそが分かりやすいのであるから。
混沌としたものの中で生命は生まれたのだとしたら、全てを包み込む思想が必要だと思う。
多様な民族を、多様な言葉を、多様な宗教を、考え方を受け入れることこそが、この事件から学んだ教訓だと感じる。

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2018年7月 2日 (月曜日)

デンマーク研修報告1

デンマークの小学校を訪問した。小学校は、0年生から10年生まである。学校は、子どもが社会の一員として社会に溶け込め税金を納めて社会人として権利と義務を果たすことを目的としている。そして、人生を楽しむための教育を受ける。0年生は、小学校1年生になるための準備の年、訪問した学校にはその前の学年、多分5歳の子どもがいた。つまりマイナス1年生。ちなみに、10年生は、9年生で社会に出るのに少し時間が必要な子どもが通う。この学校に10年生はいたのかどうかは分からない。目的のために制度を工夫するのがデンマーク風である。この辺りは学校毎、地域毎の裁量があるのだろう。

 校門はない。学校らしさもない。学校らしさとは、ステレオタイプのイメージである。僕たちが感じる「らしさ」を壊す様々な出来事に出会うことになる。

小学校の基本理念は、自由と規律のようだった。

学校のリーダーはもちろん校長先生。しかし校長生成は、ジーンズを履き、若々しい中年だった。楽しそうにクラスを周り、出会う子ども全てに声をかける。名前を呼び、冗談を行ったり注意をしたり。100名以上の全生徒の名前を知り、子どもからの信頼が厚い。

 授業は、小さなグループで行われ、そのグループを二つに分けることもある。pciPadを使い、電子黒板を活用している。一見、授業をしているのか遊んでいるのか分からない。授業には規律も必要だが、それ以上に効率的であることが優先するように感じる。インターネット環境がいいし、なんでも使えるものは活用するのがデンマーク流であるようだ。

 学校の大きな役割として、子どもの自発性、自立性を伸ばすことに力を入れている。18歳で家を出て、社会の一員として自立するデンマークでは、子どものうちから、自分で考える準備をしているように見える。自主・独立は、教育の中心的な目的であることはどこの国も同じだと思うが、国の制度が、この理念と一致しているのが日本と大きく違うのだろう。理念が立派でも、制度やシステムがそれに合わないのでは何にもならない。自立的に物事を考え行動すると住みにくい社会は、社会を変えるべきでるかもね。

 

 

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2018年5月18日 (金曜日)

歴史を語る

病気であることで何かが分かるわけではない。
男性や女性であることで、意見が違う訳ではない。
洋服や時計で性格が分かるわけでもない。

その人の向こうにある歴史を語ることで見えてくるものがある。

認知症であったことは事実かもしれないが、そのことで見えてくるのは、その人とどのように関わってきたのかというと、私の歴史である。
病気として認知していたのか?
その病気の本質を理解していたのか。
その病気の苦しさを分かっていたのか。

認知症というと言葉でかたずけたいのは、私自身の歴史だとしたら、私は本当に共に生きてきたのか。

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2018年5月 6日 (日曜日)

All About マイマザー

母の事で一番古い記憶は、雨の日に学校に迎えに来てくれた母の傘に入って家に帰る時である。
これは、写真で見たのかもしれないが、そんな写真を誰が撮っていたのだろうと考えると、僕の記憶かもしれない。
僕はつまらない顔をしている。それは、学校で僕がお漏らしをしたからかもしれない。学校は嫌いだった。
母は僕の手を引いて黙っている。
その顔は若いビジネスガールのようだ。

この時の顔は忘れられない。
たぶん、30を少し超えたくらいだったのだろう。
何かに悩んでいる顔をしている。
子育てに不満だったのだろうか?
いや、自分の人生の事を考えているように見える。

その次の記憶は、母親の顔になっている。
いつもの、あの人懐っこい顔だ。

だからこそ、あの時、一人の女性として何を考えていたのかを知りたい。

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2018年4月27日 (金曜日)

ソバ

女がソバを食べている。
別に男だっていいのだが、たまたま女だった。
多分女だと思う。絶対にと言われると分からないが、横に赤ん坊が座っている。
僕との距離は1メートルぐらい。二人の間には低い壁があり、草が生えている。多分造花。本物なら、虫がわくだろう。
彼女はソバを食べている。麺類だ。その麺を右手で空中に上げる。それが美しい。空中にあげた麺を暫く眺め、うっとりする。
麺は、箸に挟まれ嬉しそうに水を垂らしている。
赤ん坊は何も言わない、何も食べない。
それでいて、口には運ばない。麺は何度も、ツユと空中を行き交い、弄ばれている。
僕がそこに行って、私が代わって食べましょうかと、言いたい。
もしかしたら、筋トレなのだろうか?
最近、様々なトレーニングが流行っている。右手のストレッチとして、ソバの重さを利用して二の腕の外側を伸ばす運動なのか。
そんな事思いながら、コーヒーを飲んでいると楽しい。

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どんなものにも境界がある。
それは、点の集まりでできているのだろうが、その点はどこにもない。
円の中心や線の交わりに、それはあると言うが見た人はいない。見えないけれど確かにある。
そんなものは山ほどある。
その山も、どこからが山なのか分からない。歩いているといつのまにか山の中にいることがある。だんだん暗くなると怖くなる。知らないうちに点にぶつかるようなものだ。
雨も、その境があるが見ることはない。
しかし、そんな雨の境に出逢った。
沖縄の海の上にいた。小さなボートに乗っていた。
ジリジリ肌を痛めつける陽射しを浴びていたら雨ふが降ってきた。肌は暑いのに冷たい雨だった。
その時、船 の崎にいた船頭に雨が当たっていないことに気づいた。
狭い船の横を通り船首に移動する。その途中、雨の境を通ることになる。
身体の半分が濡れている。それは雨粒というと点の集まりであった。
しばらくすると。雨は何もなかったように去って行った。
境界は、突然やってきて、突然去っていく。
国境も同じようである。越えることができない状態が何十年も続き、突然、歩いて渡る。

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2018年4月18日 (水曜日)

川の話

押川さん【仮名】の話についていくのは難しい。
こちらの質問には80%答えない。それでもたまに答えるので期待して聞き返す。
会話が続かないが、押川さんさんの話は続く。誰々が最近やめたけど知ってると聞く。知らないと答えると、最近お風呂に入っていないと返事する。そう、というと、川に行きたい。今頃は綺麗だろうと話す。
まあ、理解しようとすると疲れる。それでいて、ボート聴いていると、私の話を聞いているのかと聞く。
まあ、と返事する。また、昨日あった大変な事を喋り出す。
ところで、川の話はどうなったのかと、蒸し返すと、そんな事言っていないと言う。
そこで、今頃行ったら気持ちいい川を想像する。

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2018年4月16日 (月曜日)

施設内で起きる性的な虐待

養護施設内で起きる児童間の性的虐待についてのニュースを読んだ。

施設という環境は閉鎖的であり、内部でどのようなことが起きているのかが見え難い。それは、学校や病院、役所や裁判所も同様であろう。
小さな社会である養護施設では、他の社会で起きることなら当然発生すると思われ、それを特段に問題だと取り上げることにどれほどの意味があるのだろう。
むしろ、養護施設内で、性的事件が起きたと報道することで、加害者と被害者をあぶり出し、守られるべき環境でも虐待があったのかという認知を強調するだけだ。
しかし、考えれば分かることだが、養護施設で生活する子どもたちは、子どもらしく生きる権利を侵害されている被害者である。その彼ら、彼女らがともに暮らす仲間を虐待するとすれば、その問題の本質はどこにあるのか。それは、社会が背負うべきことだと思う。
他者を思いやれない社会で暮らす子どもたちが、他者を大切にすることはできない。自分自身も大切にできない。
また、性的なこ事柄でいえば、寂しさを紛らわすために、暖かさを感じるために、性的な接触を求めようとする子どもたちは多い。それは、大人から、親から一番大切な物を奪われてきた子どもたちの訴えである。

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2018年3月12日 (月曜日)

加藤和彦の話をする北山修

繋がらないように思える話が、実はというふうに、繋がり始める事に気付いたのは歳のせいだけではなく、経験が大きく関わっていると知ったのは最近だ。

彼がすることが無意味だとお思っていたのは、私の人生にいう意味を見出せなかったからかもしれない。

しかし、北山は心に無意識があるという。
彼の行動を、演技と捉えた場合、
彼は演出家の命じるまま、お茶を飲み、昼寝をし、サザエさんを見る。
それは、とてもうまい演技である。
誰も真似できない。それどころか、彼以外にそれをできる者はいない。

無意識が、それをさせている。
しかし、無意識をコントロールする、演出家がいる。

それは誰なのか、彼は知らない。
自分ではわからない。

分からないからこそ自然に振る舞える。
その意味を価値づける事を僕はしているのだろうか。
むしろ価値を下げている。

そう、僕は、僕の無意識をコントロールできない。

でも、彼は彼の世界に今朝も、古い靴を履いて出かけていった。

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動く

動く事を大切にしている。
動かなくてもできる事を、動くという事は、時間の無駄、お金の無駄のようにいう人もいる。
でも、動かないと分からない事は多い。
動くという事は、場所の移動、空間の共有、出会いの不思議さ、気持ちの変化がある。
人が行動するためには、動機が重要だと感じる。
動機とは、動くためのキッカケである。
だらだらしている気持ちに喝を入れるようなものである。

対人認知において、他人が知り合いになるきっかけは、出会いである。

今まで知らなかった人、出逢うことのなかった人との会話は、種類ではできない。
相手の表情の微妙な変化があってこそ、彼女の声の震えによって感じる、僕の変化が大切になる。
動かされるのは僕である。

この仕事の醍醐味は、どんどん変わっていく私の面白さである。
環境を変えるでもなく、相手を変えるでもなく、僕たちの時代がどんどん変わっている事に気づく事である。
昨日の私ではないのは、あの国の人も同様なのだ。

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2018年2月26日 (月曜日)

銀行で待つ

銀行で待っている。
映画と同じで後見人は待つことが多い。
待つのにふさわしい場所があるように、銀行は待つ場所としては落ち着かない。
だいたい、お客が入ってくると店員が大きな声で挨拶し、要件を聞き、早く要件をいえ、それでなけれが帰れ、という雰囲気がありありだ。
その点、地方銀行はいいね。いつも空いていて、お茶なんか出てきそうな、モグモグタイムがありそうな雰囲気だ。奥に座っている頭の薄い店長は鼻くそを掘っているように仰け反っている。あくまで想像。
そして、3時を回り、どんどん客が居なくなった後の銀行は居心地は最悪。まあ、そうだろうけど。
この時間になると、店員の声が大きくなり、結構、無駄口を聞いている。きっと、ホッとするのだろう。

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2018年2月24日 (土曜日)

難民をおもてなす

映画の話である。
昨日は、我が家に二人の見知らぬ人の訪問があった。
朝起きたら居間に寝ていた。

こんな事は養護施設時代にもよくあった。
朝起きるとベッドに見知らぬ男性が寝ている事がよくあった。
彼は、食事をして、帰って行った。

僕も見知らぬ人と、知り合いになり一晩の寝床のもてなしを受けたことがある。

昨日までは知らない人でも、もう知っている人になる。
しかし、困ったことが起きる。
それは、習慣、風習、ルーティンが違うということ。
それは、うちではしないよ、という事をする。される。
些細な事にイライラする。
しかし、それに本人は気づかない。

それが頭にくる。

難民は日本に遠い問題と思っている人もいるかもしれないが、
原発や地震、水害、火山の爆発、それに北の国の問題と
世界一難民がみじかな国だという事を忘れているだけかもしらない。

難民に、難民生活に慣れる為、まず、見知らぬ人を招き入れよう
そして、見知らぬ人のお宅に泊まろう。

もし、家の人から何か言われたら、カーリング女子が言うように
そだねーと、歯を出して笑おう。

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2018年2月22日 (木曜日)

エアギターはしんどい

京都にエアギターを売っている店がある。
そこに行くと、店主が大事そうにギターを抱え出てきた。
え、いやっしゃい。
う、ギターが欲しいんですが、と僕。
どんな感じのと、店主。
カッコイイのと僕。
じゃあと、手持ちのギターを差し出す。
それを受け取り、アンプに通し、大音量で演奏する僕。
どうだい?と店主。
うーん、低音がいいね、と僕。
そうだろと店主。
それじゃあと、演奏を再び開始し、少し調子に乗る僕。
それくらいでいいんじゃないという顔をする店主。
その雰囲気を感じて演奏をやめ、アンプからプラグを抜く真似をして
汗を拭く 僕。

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2018年1月20日 (土曜日)

歳を取っても苦労がなくならない人生って

色々やってくれる人がいる。

色々やるから、色々と後始末が必要になる。
人のことは分からないし、変えられないと知っていても、ほっておくこともできない。どうしてと聞かれても、答えようがない。
プールで泳ぎながら妄想した。
しかし、いい案が浮かばない、僕は浮かんでいた。
苦労は人を幸せにはしないが、人生を楽しむ方法を教えてくれる。
楽をせず、もっと生きろを教えてくれる。

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2017年12月28日 (木曜日)

移民がいない街

カウリスマキの希望の彼方を見た。
中東からの逃げ、フィンランドに難民申請をする青年の話である。
フィンランドは、民主的な街だと聞いてきた。しかし、そこは他のヨーロッパと同様移民が多い街である。
つまり、混沌としている街。
日本は、混沌としているのに移民が少ない。
異なる人を受け入れない。物や仕組みは入れても、人に対しては排他的、差別的である。

このシステムが素晴らしいとどこかで思っている。
平和だと感じている。

しかし、それは嘘だと、例の事故以来明らかになった。

それでも、その嘘を信じさせる事に一生懸命になっている人がいる。

青年を助けるのは、弱い側の人たちである。
じわじわとせまる、戦争の空気ーそれがお金で救えるような気分を、誰が救えるのだろうか。

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2017年12月26日 (火曜日)

見つめるようで 見られている

妻の髪が抜けはじめて半年。
彼女の姿を見るたび、それは僕を見るようであり、僕が見られているようである。
それはしっとりとした湿原を思わせる。

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